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76億人の海図

東西の冷戦終結から2019年で30年。国連によれば、76億を超える人々が地球上に暮らす。テロや自国優先主義の拡大、そして地球環境問題の深刻化・・・。国際秩序が大きく揺らぎ、世界が不安定化する中、自らのよりどころとなるものを求めて行動を始めた人々がいる。新たな海図を描こうと試みる姿を世界各地に追った。

仲間が見つけた祖父の島  インド音楽が懸け橋に カナダ・日本

2020.4.26 17:58 共同通信

 もしスティーブ・オダ(73)がインド音楽に出会っていなかったら、祖父母の国、日本の土を踏まないまま一生を終えていたかもしれない。
 日系3世のオダはカナダ・トロント生まれ。両親はバンクーバー出身の日系2世だ。第2次大戦が始まるとカナダも日本に宣戦を布告、日系人を「敵国人」とみなし、約2万人を太平洋沿岸地域から排除した。
 オダの父ジョセフはトロントへの移住を強いられ、母ヨシコは内陸の強制収容所で過ごした。しかし、両親の詳しい生い立ちや戦争体験をオダは知らない。「聞いても、知る必要はないと言われた。あまりにつらかったからだろう」と思いやる。

 ▽自分の感情を表す
 両親はオダと、5歳違いの弟をカナダ人として育てようとした。両親は日本語で話したが、兄弟には教えなかった。「優秀になれ。しかし目立つな、と言われた。高校でアジア系は自分と中国系が2、3人だけ。目立つなと言われても無理だった」と笑う。
 オダは小さい頃から音楽に興味を持ち、6歳でスライドギターを習い始めた。「本当はピアノが習いたかったが、家には余裕がなかった」。青年時代は「音楽で感情を表現するのが何よりも好きだった」と振り返る。母国語も知らず、日系人であることに引け目を感じさせられる環境の中で、音楽は救いだった。
 高校、大学時代はジャズに没頭し、時間さえあればバスで米ニューヨークまで行き、ジャズクラブを回って絶頂期のジョン・コルトレーンなどを聴いた。1967年、トロントでインドの弦楽器サロードの名手アリ・アクバル・カーンの公演を聴いたオダは大きな感動を覚えた。「これがコルトレーンに影響を与えた音楽か」

 

祖父の位牌が納まる愛媛県・佐島の西方寺の本堂で、弦楽器サロードを演奏するスティーブ・オダ(右)。親戚の小田重文(左手前)ら島民が聞き入った=19年4月
祖父の位牌が納まる愛媛県・佐島の西方寺の本堂で、弦楽器サロードを演奏するスティーブ・オダ(右)。親戚の小田重文(左手前)ら島民が聞き入った=19年4月

 

 ▽遅咲き
 ミュージシャンを志したが両親の強い反対で電力会社に就職。音楽への情熱は消えなかった。69年、トロントを訪れたシタールの巨匠ラビ・シャンカールに面会し、義兄弟であるカーンに弟子入りしたいと訴えた。
 熱意が通じ、オダは翌年、米ロサンゼルスに住んでいたカーンの長男からサロードの手ほどきを受けた。73年からはカーンの直弟子となり、電力会社を退職するまでの約20年間、休暇のたびにロサンゼルスを訪れて修練を積んだ。退職後は音楽に専念するため、カーンが設立した音楽学校もある米サンフランシスコ近郊に移住した。
 インド音楽家としてのオダは、遅咲きだ。インドでは3歳、5歳から修業を始める場合も多い。しかし、インド音楽に魅せられた演奏家は国籍や人種を超え、世界中に広がる。米コロラド州に住む米国人タイ・バーホー(56)もその一人。インドの打楽器タブラを始めたのは20代の頃だ。別のタブラ奏者からオダを紹介され「繊細な演奏と温厚な人柄」にひかれ、共演を始めた。2007年、オダを初めて日本に連れて行ったのがバーホーだった。

 ▽130年の時を超え
 オダを出迎えたインドの横笛バーンスリー奏者の寺原太郎(51)は初対面の衝撃が忘れられない。新潟県魚沼市でのリハーサルだった。「涙が出た。すごい。美しい。インド人でもないのに、最初の一音で到達できる深さが比べ物にならない。なぜこの人はこんなに深い音が出せるのか」
 きらびやかなシタールの音色が太陽なら、サロードは月を思わせる陰影を帯びる。寺原は「どれだけ音楽にささげ、積み重ねてきたかがうそ偽りなく伝わってきて、打ちのめされた」と言う。

 

祖先の墓参りをするスティーブ・オダ。「まさかここを尋ね当てられるとは思わなかった。感無量だ」と一族の墓碑を見回した=19年4月、愛媛県・佐島
祖先の墓参りをするスティーブ・オダ。「まさかここを尋ね当てられるとは思わなかった。感無量だ」と一族の墓碑を見回した=19年4月、愛媛県・佐島

 


 オダは新潟の公演後、祖父・茂三郎が「『サ』で始まる地名の出身だ」と身の上を話し始めた。寺原と妻の百合子(50)が「これができるのは自分たちしかいない」と、ルーツ探しの手伝いを買って出た。オダが持つ資料や移民のデータベースなどを調べ、1887年に19歳で単身バンクーバーに渡った祖父が愛媛県・佐島(さしま)の出身だったことを突き止めた。
 2014年、寺原夫妻に連れられて穏やかな瀬戸内海に浮かぶ離島、佐島を初めて訪れたオダは「なぜ祖父はこんな美しい所を離れたのか」と不思議に思った。その答えは、まだはっきり出てはいない。
 そして19年4月、茂三郎の位牌(いはい)を納める佐島の西方寺で、オダは寺原らと“里帰り”コンサートを開いた。本堂には島の住民ら約30人が集まった。親戚で島に住む小田重文(93)も姿を見せ、なじみの薄いインド音楽にじっと耳を傾けた。
 オダはアンコールにインド・ラジャスタン地方の曲「ミシュラ・マーンド」を選んだ。演奏の終盤、オダは唱歌「ふるさと」のメロディーを挟み込んだ。気付いた寺原が追い、数人の聴衆も小声で歌詞を口ずさんだ。
 オダには遠い国だった日本。メロディーを紡ぐサロードの細い弦が、それを手元に引き寄せた瞬間だった。(敬称略、文、写真・尾崎元)

 

取材後記

共鳴し、紡いだ物語

地図
 

 サロードには旋律を奏でる弦が4本、リズム用の弦が6本、そして共鳴弦が15本ある。祖父の生まれ故郷にたどり着くまでのいきさつは、あたかもオダが主旋律を奏で、それに共鳴した人たちがともに紡いだ物語のようだ。
 オダは還暦を過ぎるまで、ほとんど日本を意識することがなかった。バーホーも、オダが日系人だからと日本への公演旅行を誘ったのではない。
 偶然の積み重ねだったのか、それとも何かに導かれたのだろうか。瀬戸内海の島影に沈む夕日を見て立ちつくすオダの後ろ姿は、そんなことを考えながら3代の長い旅の終わりをかみしめているように見えた。(敬称略)

 
 

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