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76億人の海図

東西の冷戦終結から2019年で30年。国連によれば、76億を超える人々が地球上に暮らす。テロや自国優先主義の拡大、そして地球環境問題の深刻化・・・。国際秩序が大きく揺らぎ、世界が不安定化する中、自らのよりどころとなるものを求めて行動を始めた人々がいる。新たな海図を描こうと試みる姿を世界各地に追った。

国家の命運、データに託す 「デジタル政府」と生きる エストニア

2020.3.18 17:25 共同通信

 生まれたばかりの赤ちゃんの右手首にバンドを巻き付けると、不機嫌そうな表情を浮かべて泣き始めた。中世の城壁や石畳が当時のまま残る世界遺産の街、エストニアのタリン。2019年9月29日午後7時4分、東タリン中央病院で生まれた女の子のバンドには、11桁の個人識別番号が記されていた。名はまだない。「名前が決まったらインターネットで入力してね」。看護師がほほえんだ。

エストニア・タリンの病院で、11桁の個人識別番号が記されたバンドを巻き付けられる生まれたばかりの赤ちゃん=2019年9月(共同)
エストニア・タリンの病院で、11桁の個人識別番号が記されたバンドを巻き付けられる生まれたばかりの赤ちゃん=2019年9月(共同)

 

 エストニアでは、生まれてすぐに全国民に番号が割り当てられ、政府のサーバーに登録される。「結婚と離婚と不動産売買」。この三つ以外の行政サービス手続きは、国が運営するウェブサイトを使いネット経由で済ますことができるという。
 旧ソ連やドイツなど近隣諸国から繰り返し侵略を受けてきた人口約130万人の小国が、生き残るために選択したのは、最先端の「デジタル政府」という道だった。

 ▽祖国とつながる
 1991年。当時8歳だったオリバー・アイト(37)はエストニアが旧ソ連から独立を回復した日のことをはっきり覚えている。生まれたのは旧ソ連施政下。国土の半分が森林に覆われるエストニアで父は森林管理の仕事をしていた。
 「ダイ・ハード」「ホーム・アローン」…。独立後、それまで知ることがなかった米国の映画や音楽が一気に流れ込んできた。アイトは西洋文化に引き込まれていった。なかでもテレビゲームに夢中になった。日本メーカー「SEGA」のカーレースゲームでよく遊んだ。「海外で仕事をしたい」と英語を身に付け、名門タルトゥ大学へ。数学とプログラミングを学んだ。
 30歳を過ぎたアイトは、エストニア投資銀行の行員となり北京にいた。エストニア国民は個人識別番号と電子チップを埋め込まれたIDカードの所持が義務付けられており、海外からでも行政サービスが受けられる。
 当時、エストニアで国会議員選挙があった。世界でいち早く導入されたネット投票の制度を通じ中国から1票を投じた。「遠く離れていても祖国を思うことは当然だ」

 ▽プリント不要
 アニメ映画「魔女の宅急便」のモデルの一つとなったとも言われる古い街並みを抜けると、タリン市役所がある。9月下旬の平日、窓口に来ていたのは初老の女性1人だけだった。「来るのは1日平均50人ぐらいね」と市職員。生活保護や年金、引っ越しなどの手続きはネットで済ますことができる。日本の役所で見掛ける大量の申請用紙もない。「今まで一度も行ったことがないね」。現在IT企業で働くアイトが明かす。

個人識別番号と電子チップが埋め込まれたIDカードを手にするオリバー・アイト=2019年9月、エストニア・タリン(共同)
個人識別番号と電子チップが埋め込まれたIDカードを手にするオリバー・アイト=2019年9月、エストニア・タリン(共同)

 

 IDカードには、免許証や保険証と同じような機能も付帯されている。自分の個人情報は、ネット上に開設されるポータルサイトで閲覧でき、病院の診察記録も所有車の情報もいつでもどこからでも見ることができる。
 学校でもデジタルは活用されている。テスト結果や成績も記載されており、両親もチェックできる。「点数が悪いからといって隠すことなんかできないわ」と小学校教諭。保護者への連絡もポータルでしており、日本でよくある学校からのプリントという文化はない。

 ▽サイバー攻撃
 デジタル政府を進めていたエストニアが07年、大混乱に陥った。政府のポータルやホームページがつながりにくくなった。オンラインバンクも一部が使えなくなった。原因はサイバー攻撃。市内の旧ソ連兵士の銅像を移動したことをきっかけに、ロシアから大量の通信を浴びせる攻撃があった。世界で初めて国家を標的にしたサイバー攻撃とされ、影響は3週間に及んだ。デジタル先進国を掲げるエストニアはメンツをつぶされた。
 「利便性だけでなく、安心して利用できるようセキュリティーを強化した」。政府で対処に当たった担当者が強調する。攻撃後、初めてとなる国家サイバー戦略を策定した。現在のシステムには、改ざんやサイバー攻撃にも耐えられるブロックチェーンといわれる暗号技術も取り入れられている。北大西洋条約機構(NATO)のサイバー研究施設も誘致した。
 「独立後、われわれには資源も技術もなかった。労働力も少なく国を強くするためデジタルが必要だった」。外務省サイバー大使を務めるヘリ・ティルマークラールが落ち着いた口調で話す。
 エストニアは、経済活性化のために国内に居住していない外国人でも会社設立や銀行口座を開設できる「電子国民制度」を導入。18年には全国民の複製データを格納したサーバーを「データ大使館」としてルクセンブルクに設置した。
 侵略で祖国を奪われ、多くの民が亡命した歴史を持つエストニア。「もし国土が失われ国民がばらばらになったとしても、データさえあればいつか国は再興できる」。ティルマークラールが確信を込めて話した。(敬称略、文・沢野林太郎、写真・松井勇樹)

取材後記

マイナンバーのお手本

地図
 

日本のマイナンバー制度は、エストニアのIDカード制度をお手本にしたとされる。しかしエストニアのカード普及率はほぼ100%なのに対し、日本のマイナンバーカードはわずか約14%だ。
 エストニアの制度の特長は、高い利便性と強固なセキュリティーだ。アイトが勤める日本とエストニアの合弁企業「プラネットウェイ」は、この仕組みを応用したシステムを千葉県市川市などの地方自治体に導入しようと試みている。市民が大量の情報に一つのシステムで容易にアクセスできるようになるという。
 「このカードがあればとても便利。ないと暮らしていけない」。日本での普及の鍵はアイトが話したこの言葉にあるような気がする。(敬称略)

 

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