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週刊TURNOVER

共同通信社が運営するアメリカンフットボール専門のウェブマガジン。国内外のフットボールを紹介するベテラン記者のコラムや、国内注目試合の見どころやリポートなどを毎週掲載する。監修は共同通信記者で、NFLの解説者でもある宍戸博昭。

「オプション攻撃」で一時代築く 明大・野崎和夫元監督を偲ぶ

2021.2.6 14:51 宍戸 博昭 ししど・ひろあき
88歳で亡くなった明治大の野崎和夫総監督=明治大学アメリカンフットボール部提供
88歳で亡くなった明治大の野崎和夫総監督=明治大学アメリカンフットボール部提供

 

 明治大アメリカンフットボール部は2月5日、同部の野崎和夫総監督が1月27日に、心不全のため死去していたことを明らかにした。88歳だった。

 

 東京・明大中野高時代は野球部だった野崎さんは、明大入学後にアメリカンフットボールを始めQBとして活躍した。

 大学卒業後は防衛大のコーチを経て1961年に母校のコーチに就任、翌62年から97年までの36シーズンで監督を務めた。

 2020年には、日本アメリカンフットボールの殿堂入りを果たしている。

 

 

 

 日本大の篠竹幹夫監督が「動」なら、野崎さんは「静」と表現したい。

 教え子から「おやじ」と慕われた二人の「昭和の監督」のもう一つの共通点は、アメリカンフットボールを心の底から愛したことだった。

 

 明大と日大が関東大学リーグで覇権を争ったのは1970~80年代だ。切れ味鋭い「スピードオプション」。対戦校のディフェンスを翻弄する素早い展開が特徴の攻撃は華麗で、したたかな戦略を基盤に構築されていた。

 

 筆者が日大2年時に左のCBとして出場した明大との関東大学選手権決勝でのことだ。

 通常最前列にいるDEかOLBをあえてブロックせず、その選手の動きによってQBが走るかRBにピッチするかを選択する「リードオプション」で、自分がいわゆるオプションにかけられた。

 DBの後ろには誰もいない。当然外側を守るためRBに向かった筆者の右側を、QBが一気に駆け上がっていった。驚きのCBオプションに度肝を抜かれた。

 

 野崎さんが指揮したチームが出場した4度の甲子園ボウルは、いずれも関西学院大の壁に阻まれた。

 68年と85年は、ともに2点差の惜敗だった。RB吉村祐二(当時3年)、QB渡邊弘幸(当時2年)というスター選手がバックフィールドにいた85年は、大激戦の末つかみかけた勝利を46―48で逃した。

 

 「やるのかやらないのか、どっちなんだ?」(野崎さん)「やります!」(学生)「じゃあやれよ」(野崎さん)

 勝っても負けても、試合後の学生とのやり取りはこんな感じだった。短い言葉の中に、普段の教えが学生の心に浸透していることがうかがえた。

 暑い日も寒い日も、荻窪の自宅から練習グラウンドがある八幡山まで、ほとんど休むことなく自転車で通っていたという。

 

 甲子園ボウルでの勝利には縁がなかった野崎さんだが、「犠牲の精神」など独自の哲学をベースに据えたチーム作りは秀逸で「野武士のような選手が多い明治との試合は、いつも命がけだった」という記憶がある。

 

 東西学生オールスター戦だったライスボウルの練習は、存在感のある野崎さんと篠竹さんがそろって目を光らせていると思うと、自然と背筋が伸びた。

 監督の座を退いた篠竹さんが、晩年に最も心を許していたのは、最大のライバルである野崎さんだった。

日大の篠竹監督が明大の野崎監督に贈った著書に書かれたサイン=明治大学アメリカンフットボール部提供
日大の篠竹監督が明大の野崎監督に贈った著書に書かれたサイン=明治大学アメリカンフットボール部提供

 

 選手が着用する試合用ユニホームは、常に時代の最先端の素材やデザインを選ぶこだわりは、野崎さんならではのものだった。

 昔ながらの「頑固おやじ型」の指導者は、晩年を過ごした関西で後輩たちの動向をいつも気にしていたという。

 学生をこよなく愛した名伯楽の冥福を心から祈りたい。(編集長・宍戸博昭)

宍戸 博昭 ししど・ひろあき

名前 :宍戸 博昭 ししど・ひろあき

プロフィール:1982年共同通信社入社。運動記者として、アトランタ五輪、テニスのウィンブルドン選手権、ボクシングなどスポーツ全般を取材。日本大学時代、「甲子園ボウル」にディフェンスバック、キックオフ、パントリターナーとして3度出場し、2度優勝。日本学生選抜選出。NHK―BSでNFL解説を20年以上務めている。

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