志半ばで退任へ 「不死鳥」の危機救った橋詰功監督

甲子園ボウルから2週間が過ぎた師走の東京・銀座。知り合いが経営するレストランを貸し切り、日大の橋詰功監督を招いてささやかな食事会を開いた。
取材対象として、折に触れて話を聞いてきた橋詰さんだが、プライベートな時間を共有するのは初めてだった。
時に重箱の隅をつつくような質問をしてきた取材者としてではなく、一OBとして感謝の気持ちを伝えたかったというのが会食の目的だ。
「PHOENIX」と書かれたスウェットパーカに「不死鳥」のロゴが入ったマスクをして現れた橋詰さんは、いつもよりリラックスしているように見えた。
「3年前の8月の記者会見では(立命大)パンサーズのマークが入ったポロシャツしかなく、慌てて嫁さんと六本木までマークがない白いポロシャツを探しに行った」という裏話を披露してくれた。

そして、お店のオーナーお薦めの日本酒を飲みながら、橋詰さんは少し語気を強めてこう言った。
「篠竹さんの指導法は、究極の学生主体だったと思う。フェニックスのやってきたフットボールは正しい」
2018年の9月1日に、正式に日大の監督に就任した橋詰さんなりに、フェニックスの礎を築いたカリスマ、故・篠竹幹夫元監督の指導理念について学んできたのだろう。
自ら手を上げて飛び込んだとはいえ、未知の世界で好結果を残すための苦労は想像以上だった。
新監督の方針に疑問を呈し、反発する学生との軋轢。他大学とは一線を画したチーム作りをしてきた文化を大切にしたいと思うOBとのやり取りには、神経がすり減る思いだったに違いない。
東京・桜上水にある練習場に隣接するトレーニングルームの2階で寝泊まりし、チームの再建に腐心してきた。
公式戦への出場資格停止処分。関東大学リーグ1部下位BIG8からの再出発。そして1部上位TOP8に返り咲いた昨年はコロナ禍でのリーグ戦と、さまざまな試練を乗り越えてきた。
橋詰さんは、18年5月の関学大との定期戦(東京)で起きた不祥事を受けて、公募で選ばれて監督になった。
選考過程で、学生の保護者やOBの強い推薦を受けた水野彌一元京大監督の就任がほぼ決まっていた。
しかし、大学側が設けた「監督選考委員会」が決めた「満場一致」の条件を満たしたのは、それまで母校・立命大でも監督経験のない橋詰さんだった。
OB総会では、チームを率いる覚悟を問う厳しい注文を突きつけられた。
外様の悲哀を肌で感じながら、新監督は自らのやり方を貫き、昨年は3年ぶりとなる甲子園ボウル出場を果たした。
ライバル関学大との甲子園ボウルは、エースQB林大希選手が肩を痛めて本調子にはほど遠い状態ということもあり、完敗した。
橋詰さんの試合後の涙の理由は、あえて聞かなかった。監督、コーチ、スタッフが選手と一体になって精いっぱい戦った結果だったからだ。
年が明けて、大学側から契約の更新をしないという通達があった。甲子園ボウルでの優勝が契約更新の条件に入っていたかは不明だが、「続投」を希望していた橋詰さんにとってはつらい決定だった。
後任については聞いていないという。

3年契約は、今年の8月いっぱいで切れる。しかし、秋のリーグ戦を控えた時期での体制の移行は学生のために良くないという理由で、橋詰さんは年度が替わる今春で新体制に引き継ぎたいとしている。
せめて、橋詰さんが監督になった年に入学した新4年生が卒業するまで任期を延ばせなかったのかという思いが募る。
フェニックスは昨年、創部80周年を迎えた。最大の危機を乗り越えて復活した2020年度の「不死鳥」ほど、その名にふさわしいチームはない。
志半ばで退任するが、その中心に「橋詰功」という指導者がいたことは紛れもない事実であり、フェニックスを立て直した功労者としてその名は永遠に残る。