メニュー 閉じる
スポーツ

スポーツ

週刊TURNOVER

共同通信社が運営するアメリカンフットボール専門のウェブマガジン。国内外のフットボールを紹介するベテラン記者のコラムや、国内注目試合の見どころやリポートなどを毎週掲載する。監修は共同通信記者で、NFLの解説者でもある宍戸博昭。

留学先で出会ったスターRB 彼の名は「カービン・リチャーズ」

2019.6.5 10:39 生沢 浩 いけざわ・ひろし
ピッツバーグ大RB時代のカービン・リチャーズさん(27)=提供・生沢浩さん
ピッツバーグ大RB時代のカービン・リチャーズさん(27)=提供・生沢浩さん

 

 今からちょうど30年前、日本では元号が昭和から平成に変わった1989年に、筆者はアメリカのペンシルベニア州ピッツバーグに語学留学していた。

 ピッツバーグ大学の語学学校に在籍していたので寮に入ることができた。

 

 その寮のエレベーターの中でよく会うアフリカ系アメリカ人がいた。彼の名前はカービン・リチャーズ。何度も顔を合わせるので自然と言葉を交わすようになった。

 

 話すうちに、彼がピッツバーグ大学パンサーズのフットボール選手であることを知る。

 そして、筆者も日本でフットボールをやっていたと言うと同じRBということもあってすぐに仲良くなった。

 もっとも、筆者のことをなぜか「ヒロシ」ではなく「ヒロシマ」と呼ぶ癖はしばらく抜けなかったが。

 

 当時のアメリカでは夏ごろからカレッジフットボールやNFLのプレビュー雑誌が数多く出版された。

 カンファレンスごとに出版されるものもあり、その豊富な情報量で日本でも根強いファンがいたものだ。

 

 ふと立ち寄ったスーパーマーケットで「スポーティングニューズ」発行の1989年イヤーブックを見つけた時は思わず「あ~ッ」と声をあげてしまった。

 なんと、表紙にカービンが写っているのだ(写真左、27番の選手)。それも複数の出版社から出されているプレビュー誌で。

 

 後から知ったのだが、こうしたプレビュー雑誌は中身は同じでも販売される地域によって表紙が替わる。

 つまり、ペンシルベニア州ではピッツバーグ大学やペン州立大学の選手が表紙を飾ることが多い。

 

 とはいえ、雑誌の表紙だ。インターネットもない当時、カービンの実績を知らなかった筆者は驚いてしまった。

 このスポーティングニューズはピッツバーグ大学の2年生に人材が集まっていることを特集したものだ。確かに表紙の4人の2年生選手のうち3人がNFLに進んだ。

 

 ちなみに当時のピッツバーグ大はのちにカウボーイズやチーフスでコーチをすることになるポール・ハケットが攻撃コーディネーターを務め、選手ではコルツやレーベンズで活躍したDTトニー・シラグサ、ビルズなどでQBとしてプレーしたアレックス・バン・ペルト(現ベンガルズQBコーチ)らがいた。

 

 その中でもカービンは、エースRBとしてチームをけん引する選手だったのだ。

 1年生時には1228ヤードを走り、名門ピッツバーグ大ではトニー・ドーセット(カウボーイズ、ブロンコス)以来2人目となるルーキーでの1000ヤードラッシュを達成した。

 当時同大学が所属していたインディペンデンスカンファレンスのみならず、全米で注目される選手の一人だった。

 

 フットボールシーズンが始まると、まさにカービンは大学のヒーローだった。

 すれ違う誰もが彼に声をかける。そのたびにカービンはニコニコと屈託のない笑顔で応えるのだった。

 

 この年のピッツバーグ大は8勝3敗1分けだった。最終的な順位は17位。

 対戦相手にはその年のランキング1位のノートルダム大や7位のマイアミ大、9位のバージニア州立大学などで、なかなか見ごたえのあるシーズンだった。

 ただ、当時の最大のライバルであるペン州立大に地元で負けたことだけが残念だった。

 筆者は翌年3月に帰国したのだが、残念なことに最後にカービンに挨拶ができなかった。

 ところが、思わぬところで彼と再会するチャンスが訪れた。それも日本で。

 

 カービンは1991年にドラフト4巡でカウボーイズに指名された。そして、その翌年にカウボーイズがアメリカンボウルで来日したのだ。

 筆者はジャパンタイムズの記者としてその試合を取材した。練習場で声をかけた時のカービンの驚きようは今でも覚えている。

 

 その頃のカウボーイズはすでにエミット・スミスがエースRBでカービンは控え。

 ただ、アメリカンボウルはバックアップ選手のほうが出場時間が長いから、この試合でのカウボーイズのリーディングラッシャーはカービンだった。

 

 試合後のロッカールームで彼のコメントをとる瞬間のうれしさといったらない。

 まさかピッツバーグで英語を勉強をしていたころ、3年後に自分がカービンを取材することになるとは夢にも思わなかったからだ。

 

 少しわかりにくいのだが、写真右に写っているのはカウボーイズの1992年のメディアガイドで、表紙のスミスの上にうっすらとカービンのサインがある。筆者にとっては宝物だ。

 

 この年、カウボーイズはスーパーボウルで優勝するのだが、その場にカービンはいなかった。

 レギュラーシーズン終盤にファンブルロストを犯し、その直後に解雇されてしまったのだ。

 その後は地元デトロイトのライオンズやCFLでプレーしたが、目立った活躍をすることもなく引退してしまった。

 

 アメリカンボウル以来、カービンとは連絡が取れないままだ。SNSで探してもみたが、残念ながら今のところ特定できる人物は見つかっていない。

 

 ところが今回、このコラムを書くにあたってカウボーイズのイヤーブックをぱらぱらとめくっていたら、一枚のメモが見つかった。

 カービンの連絡先だった。住所を交換したことをすっかり忘れていたのだ。実家の住所なので、ご両親が健在であれば連絡がつくかもしれない。

 思い切って手紙でも書いてみようかと思った。デジタルな時代にアナログな連絡の取り方も悪くない。

生沢 浩 いけざわ・ひろし

名前 :生沢 浩 いけざわ・ひろし

プロフィール:1965年生まれ。上智大卒。1991年にジャパンタイムズ入社。大学時代のアメリカンフットボール経験を生かし、フットボールライターとしても活動。NHKーBSや日テレG+でNFL解説者を務める。「Pro Football Writersof America」会員。

最新記事