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週刊TURNOVER

共同通信社が運営するアメリカンフットボール専門のウェブマガジン。国内外のフットボールを紹介するベテラン記者のコラムや、国内注目試合の見どころやリポートなどを毎週掲載する。監修は共同通信記者で、NFLの解説者でもある宍戸博昭。

フットボール界を牽引した日大 歴史を刻んだ名将・篠竹幹夫

2018.12.13 11:52 丹生 恭治 にぶ・きょうじ
甲子園ボウルで優勝し、学生の手で胴上げされる故篠竹幹夫・元日大監督
甲子園ボウルで優勝し、学生の手で胴上げされる故篠竹幹夫・元日大監督

 

 いまさら日大の強さを語っても、あまり意味はあるまい。しかしそれだからこそ、成長の第一歩を日大のイヤーブックから少し振り返ってみる必要がありそうである。

 チームの誕生は1940年(昭和15年)で、関東リーグ創立の明大、早大、立大、翌年の法大、慶大に次いで6番目だった。

 西を含めると、関大に次いでこの年に名乗りを上げた同大の「同級生」である。

 関西ではこの翌年、つまり41年(昭和16年)に関学が日本で9番目のチームとして産声を上げた。ここで後に学生界を席捲する「赤と青」の2強が出そろった。

 

 初年度の日大は、明大のラグビーで全日本選抜チームに選ばれた名選手、笠原恒彦の指導を受けた。

 フォーメーションはシングルウイングで戦績は早大、慶大、明大に敗れたものの、法大と立大に引き分けるという初年度としては好成績を収めた。

 初勝利は翌41年10月20日、秋のリーグ戦初戦の対立大で、第1Qに挙げたTDによる7点を、必死で守り抜いて7―0で記念すべき白星を挙げた。

 

 しかし、時代がスポーツには優しくなかった。42年以降、フットボールのみならず、他の競技も軍部の命令で部活動を中止。終戦までスポーツのない時代が続いた。

 フットボールの復活は45年(昭和20年)。関西から息を吹き返し、翌年3月の会議を経て東もカムバックした。

 

 日大は44年8月に繰り上げ卒業をしていた吉田武夫の復学を機に、笠原とともに再建に尽力。人数不足に見舞われたが、静岡県三島市で活動していた予科の部員を世田谷の本部へ呼び寄せて、チームの形を整えた。

 そして12月5日、慶大とオープン戦を行ったが、この貴重な戦後の第1戦は日系留学生多数の慶大に歯が立たず0―62の記録的敗戦だった。

 

 しかし翌47年(昭和22年)に復活した関東のリーグ戦では初戦の早大に33―0と快勝。慶大、明大には敗れたものの、法大、立大を下してリーグ戦3勝2敗とチーム創立以来初のリーグ戦勝ち越しを記録した。48年はリーグ最終戦が法大との「全敗対決」となり、日大が辛勝した。

 

 49年も日大の不振は続き、何と明大、立大、慶大、早大と立て続けに完封負け。最後の法大戦で辛くも2TDを挙げたが。14―14の引き分けで4敗1分けの6位だった。

 日大は50年にも5戦全敗。51年にも5戦5敗と3年連続の6位、つまり最下位の憂き目を見た。52年は4敗1分けの同率5位(最下位)。

 

 この日大という最下位常連校が、ほどなく装いを改め勝ち越しを記録し、あっという間に優勝常連校の座へ駆け上がるのだから勝負事は分からないものである。
 52年に監督の座に就いたのが、42年卒業の竹本君三だった。コーチからの昇格だった竹本は、ともかく人数を増やさねばと付属高校を回って勧誘に努めた。

 

 その結果、20人を超える新入部員を獲得したと、イヤーブックにある。それでもその1年目の順位は早大と5位を分ける同率の最下位。もう一息の辛抱だった。

 53年(昭和28年)の日大は立大には大敗したものの、続く明大を倒し、法大に辛勝して、2勝3敗で早大と並ぶ3位につけた。

 54年(昭和24年)は慶大、立大に敗れたものの早大、法大、明大に勝って7年ぶりの勝ち越しを記録して3位だった。

 

 注目されるのは、日大がラインをシングルウイングバック風にアンバランスにし、そこへTのバックスをつけたフォーメーション「アンバランスT」を登場させたことだった。

 スピード重視のこのフォーメーションから繰り出されるテンポの速いランプレーが、見事な効果を上げたことはよく知られている。

 そして、日大は翌55年(昭和30年)、慶大とは6―6で引き分けたものの、4勝1分けの成績で見事リーグ初優勝を遂げた。

 竹本監督にとっては公約通り。4年計画で果たした優勝の栄冠だった。

 

 ここで甲子園ボウルで関学と対戦。26―26と劇的な引き分けを演じたことはよく知られている。

 翌56年、関東リーグは学習院大が参加して7校リーグとなり、日大は6戦全勝で連覇を果たした。

 翌年、監督が竹本から小畑重夫に変わったが、力とスピードのフットボールに変わりはなかった。リーグはこの57年に防衛大が加わって8校となり、日大はこれも7戦全勝とした。

 甲子園ボウルでは単独優勝を果たし、王者にとしての風格も身に付けた。58年は慶大に足をすくわれ、立大とともに6勝1敗の同率1位。優勝決定戦となったが7―7の引き分けで、前年優勝の順位が優先された。

 

 日大はここで2年間指揮を執った小畑に代わって篠竹幹夫が登場した。日大のみならず、日本のフットボールの歴史を作った人物だが、それについてはいずれ稿を改めて挑まねばなるまい、と思っている。

 この後、日大は2位に退く年もあったが、これはまれなことでほとんどが優勝である。

 篠竹監督時代に限ると2位は1960年以後65、68、85の3回と、93年に3位が1回。

 晩年の2001年に6位になって、同監督唯一の入れ替え戦に出場し、最後の年02年は3位で終わった。

 

 しかしこの間の勝率など、強さを示す数字は断然他を圧するものがある。日大とくれば、77年に登場させたショットガンを書き落とすわけにはいかない。

 「T」と違って、パサーがプレーが始まる時から球を投げる場所に位置するパスプレーの値打ちは今も十分高い。

 アンバランスTとショットガンの攻撃フォーメーションを生み出した日大の歴史的価値をあらためて認識しながら、本稿を締めたい。

丹生 恭治 にぶ・きょうじ

名前 :丹生 恭治 にぶ・きょうじ

プロフィール:1934年生まれ。関西学院大学卒業後、東京新聞社で運動記者としてスタートし、1962年に共同通信社へ移籍。著書に、中学時代から関学で親しんだアメリカンフットボール生活を描いた「いざいざいざ」がある。甲子園ボウルには高校時代と合わせて6度優勝。

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