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週刊TURNOVER

共同通信社が運営するアメリカンフットボール専門のウェブマガジン。国内外のフットボールを紹介するベテラン記者のコラムや、国内注目試合の見どころやリポートなどを毎週掲載する。監修は共同通信記者で、NFLの解説者でもある宍戸博昭。

日大戦で再認識した「トライ」の大切さ

2018.9.11 12:05 丹生 恭治 にぶ・きょうじ
関学大時代の筆者
関学大時代の筆者

 

 前回の試合後の反省というほどのものではないが、1954年(昭和29年)の日大アメリカンフットボール部はどこか人を刺激するところがあるチームだったように思う。

 日大を相手にしたチームは試合後、どこかで「答え」や態度の変化を迫られているように感じて、とんと落ち着かなかった。というようなことを感じているのは、関学アメリカンフットボール部の一部の選手だけだったかもしれぬ。

 

 スコアの上では何ら問題はなかったのに、ランプレーをがっちり止められて辛勝、苦戦を口にした話は前回書いた。

 むしろ小うるさい理屈言いで知られる2年生グループは、この試合のポイントに引っかかっていた。つまり、タッチダウン直後に行われる「トライ」の成否が気になって気になって仕方なかったのである。

 

 19世紀末か20世紀初頭にかけて、成長してきた「アメリカのフットボール」は、母体の「ラグビーフットボール」から受け継いだ、いろいろなものをルールの、特に得点に関する決まりの、あちこちにくっつけていた。

 その最たるものは、タッチダウン後の「ポイント」だろう。ラグビーではトライを挙げるとゴールポストへ向かってのキック、つまりフィールドゴールの機会が与えられる。アメリカンフットボールでも同様で、1点か2点を追加できるチャンスが与えられる。

 

 アメリカンのルールブックではこのTD後の得点機を「トライ」というが、日本のスポーツ界では「トライ」というとラグビーのそれがすべてで、アメリカンフットボールにもこうした「トライ」という得点機があることは、あまり知られていない。
 さてそのトライだが、当時は今と違って、攻撃はゴール前の2ヤードからで、成功すれば1点がいただけた。失敗だとむろん0点だった。

 

 プレーはほとんどがランかパス。キックもいいのだが、この時期はやるチームは皆無だった。
 なお、ここでもう一言添えておかないと、日大の話には直接の関係がないので、書き落としかねないのは、トライのポイントでキックを始めたのはこの年の秋の関学。それもリーグ戦最後の関大戦からだった。キッカーは清家智光。ホールダーは山田昇。私たちの学年だった。

 

 話を日大戦へ戻す。試合で関学が得た「ポイントのチャンス」は4回あった。むろんまだキックは採用していない。

 ところが最初の機会を私のスナップミスで落としたほか3本目、4本目のチャンスも日大の堅いディフェンスに阻まれて、結局成功は一度きり。25―7という結果が残った。

 いくら2ヤードからといっても、現在のようなキックで取る1点の安易さとは比べ物にならない。しかも前回書いたが、日大ディフェンスの強固なラン封じに手を焼いていた関学に、2ヤード前進の1点が簡単に転がり込んでくるはずがなかったのだ。

 

 「あんたらなあ、ポイントを馬鹿にしとったらあかんで。これで勝負が決まることはようあるんや。この1点はちゃんと取っとらんとあかん」
 高校生の時代からこうした戒めの言葉を、私たちは諸先輩からどれほど聞かされて育ってきたことか。いまさら言われなくても、骨身にしみたこの言葉が自然に頭に浮かんでくる。

 しかも4度の機会がありながら。「馬鹿にしとったんと違うけど」と口にこそ出さないが、自戒の言葉としてみんなの頭の中で渦を巻いていたことは確かである。

 なおキックへの切り替えは、この年の秋。この不首尾をきっかけにしていたかどうかは、実は不明である。

丹生 恭治 にぶ・きょうじ

名前 :丹生 恭治 にぶ・きょうじ

プロフィール:1934年生まれ。関西学院大学卒業後、東京新聞社で運動記者としてスタートし、1962年に共同通信社へ移籍。著書に、中学時代から関学で親しんだアメリカンフットボール生活を描いた「いざいざいざ」がある。甲子園ボウルには高校時代と合わせて6度優勝。

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