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週刊TURNOVER

共同通信社が運営するアメリカンフットボール専門のウェブマガジン。国内外のフットボールを紹介するベテラン記者のコラムや、国内注目試合の見どころやリポートなどを毎週掲載する。監修は共同通信記者で、NFLの解説者でもある宍戸博昭。

子どもたちにより多くのスポーツを 「シーズン制」のすすめ

2013.7.30 11:34 宍戸 博昭 ししど・ひろあき
「立川ジェッツ」の活躍を伝える、当時米軍基地内で発行されていた新聞
「立川ジェッツ」の活躍を伝える、当時米軍基地内で発行されていた新聞

 10歳の時に東京の目黒から移り住んだ立川は、米軍基地の街だった。校舎の窓は、輸送機やヘリコプターの爆音を遮るため2重になっていて、映画館の座席は米兵のサイズに合わせてかなり広かった。

 

 子どものスポーツは、ここでも野球が中心だったが、米軍の子どもたちとの交流が盛んで、試合はリトルリーグのルールを採用し、小ぶりの硬球でプレーしていた。

 基地の中には、手入れの行き届いた緑の芝生が鮮やかな少年野球専用のフィールドがいくつもあり、でこぼこの土のグラウンドでしか野球をしたことのないわれわれは、それだけで圧倒された。

 

 小学生レベルでは、日米の体力差は感じなかった。むしろ日本人の方が器用で、足も速かったと記憶している。

 ただ、プレーの質は基地の子どもたちの方が洗練されていた。勝率は五分だったが、こちらが負けると、不思議とハンバーガーやホットドッグが大量に振る舞われた。

 

 野球のシーズンは春から秋口にかけて。その後はアメリカンフットボールのシーズンがやって来る。

 初めて見た試合は、立川と横田の米軍対抗戦。ベトナム戦争中のこの時代、兵役を終えたらプロフットボールに復帰するという兵隊さんも結構いて、それは迫力十分だった。

 

 日本の野球チームの監督兼世話役をしていた保育園の「園長先生」は、大のスポーツ好きで英語も堪能だった。

 「園長先生」は基地の上層部と掛け合い、日本の子どもたちもプレーできるように頼み込んだ。

 保護者を集め、まずはルールの説明。それから、大人がついていればフルコンタクトでもいかに安全かを司令官級の人たちが熱心に指導してくれた。

 日本初の少年アメリカンフットボールチーム「立川ジェッツ」はこうして誕生した。

 

 防具とユニホームは米軍のお下がりだったが、「立川ジェッツ」は強かった。基地のリーグ戦に参加して、すぐに優勝争いをした。優勝決定戦はテレビで放送もされた。

 当時の「NET」、現在の「テレビ朝日」が、この日米対決を中継。歴史的な試合は12―12で引き分けた。RBとDBで出場し2TDを挙げたこの試合は、少年時代の数少ない誇らしい思い出だ。

 

 スポーツの「シーズン制」を意識しだしたのは、この頃からだ。一年中同じスポーツを続けているより楽しいし、何より運動神経に幅が出ることを実感した。

 フットボールが終われば次はバスケットボール。基地の街立川は、まさに「アメリカ」だった。

 

 「シーズン制」はなかなか日本では根付かない。指導者の問題もあるが、人気の高い野球やサッカーに打ち込む子どもたちが、他のスポーツに親しむ機会は少ない。

 春夏の甲子園を目指す高校球児が、秋から冬はフットボールやラグビーに挑戦してくれたら、違う自分を発見できるのではないか。

 

 複数のスポーツを経験するチャンスがあれば、子どもたちの可能性は無限に広がる。鉄は熱いうちに打て、である。

立川米軍基地の返還式で32年間にわたり掲げられていた星条旗が降ろされる=77年
立川米軍基地の返還式で32年間にわたり掲げられていた星条旗が降ろされる=77年

 

 

2003年当時の立川米軍基地跡地=東京都立川市

2003年当時の立川米軍基地跡地=東京都立川市
宍戸 博昭 ししど・ひろあき

名前 :宍戸 博昭 ししど・ひろあき

プロフィール:1982年共同通信社入社。運動記者として、アトランタ五輪、テニスのウィンブルドン選手権、ボクシングなどスポーツ全般を取材。日本大学時代、「甲子園ボウル」にディフェンスバック、キックオフ、パントリターナーとして3度出場し、2度優勝。日本学生選抜選出。NHK―BSでNFL解説を20年以上務めている。

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