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週刊TURNOVER

共同通信社が運営するアメリカンフットボール専門のウェブマガジン。国内外のフットボールを紹介するベテラン記者のコラムや、国内注目試合の見どころやリポートなどを毎週掲載する。監修は共同通信記者で、NFLの解説者でもある宍戸博昭。

【米挑戦スタート編】⑫ 巨漢のノーズGまくり上げスターターに

2014.6.17 15:04 鈴木 弘子 すずき・ひろこ
センターのスタメンに抜擢されたベティさん=2000年、9月
センターのスタメンに抜擢されたベティさん=2000年、9月

 ファンダメンタルとポジション別練習を2週間、プレーの合わせを1週間、そしていよいよスクリメージが始まった。

 まずは、インサイドメージ(真ん中をランニングバックがボールを持って走るプレーの練習)からだ。スナップマシーンだった私は、スターターでセンターに入れてもらった。たぶん「お陰でクオーターバックのエクスチェンジが上手になったよ。今まで、スナップマシーンご苦労様!」の意味でのスターター起用だったのだと思う。

 そしてその時、コーチ全員が描いた予想図は、スナップマシーン、ノーズガードに潰され、お役御免…だった。

 しかし予想外のことが起こった。一度も当たりの練習をしてなかった60キロのアジア人は、120キロのノーズガードをまくりあげ、何ヤードが押しこんだ。男性の「オオオオー!」という低い声が、あちこちでこだました。

 慌ててディフェンスラインコーチが、ノーズガードの選手を交代させたが、結果は同じ。練習は一時中断となり、選手は待たされた状態で、コーチミーティングが始まった。

 ミーティング後ヘッドコーチの私を見る顔つきは全く変わり、以前の気の毒な人を見る目ではなくなっていた。全選手の中で、最初に私がスターターに決定した。

 他のオフェンスラインやバックス陣が順番でプレーする中、私はずっとセンターで、練習最後の数プレーを他の選手が交代で入るだけだった。

 オフェンスラインのみんなが当たりの練習を黙々とやってきた1カ月近く、スナップマシーンと化した私は、ずっとバックス陣との合わせに付きあっていたので、プレーも完璧に覚えており、他のラインに教えられるレベルになっていた。

 初日に私をコンバートさせたちょっと偏屈なオフェンスラインコーチの信頼もすぐに得ることができた。

 そしていよいよ紅白戦が行なわれる。トラブルだらけの渡米からちょうど1カ月が経っていた。

 暑い土曜日の朝、ヘッドコーチからスタメン選手が発表された。赤チーム、白チームとも、センターのスターターは私だった。もちろんそんな選手は一人だけで、みんながブルーと白のジャージを着分ける中、私だけ、コーチの持ってきた古いジャージが手渡された。

 試合は15分×4クオーターで行なわれ、私だけ特別ウオータータイムが与えられた。

 日本では1クオーター12分の試合しかしたことがなかったし、キャンプ初日と同じ本当に暑い日だった。キッキングなしの4クオーターの試合は、今までになくきつかったけれど、試合の後は充実感でいっぱいだった。

 試合後のハドルで、ヘッドコーチは私の名前を呼び、起立させ、みんなの前で絶賛した。ヘッドコーチのめちゃくちゃ怒鳴りまくるところしか見たことがなかった私は、「この人、褒めることもあるんだ」という驚きとともに、うれしくて泣きそうだった。

 ハドル後、ヘッドコーチは私の所に寄ってきて、「キャンプの初日の倒れていた時とは、別人に成長したね」と言った。「あの時は体調が悪かっただけ、この実力は日本からのものよ」って言いたかったけど、英語ができないので言えなかった。

 次の練習の時に、誰ともあまり話をしない偏屈オフェンスラインコーチが、小さな箱に入ったフットボールのバッジを持ってきて、「僕の記念のバッジだ。是非もらってくれ」と私にくれた。

 普段は目立たないオフェンスラインの一員の私が、みんなの前で一人だけ褒められたのが嬉しかったんだと思う。彼にしては珍しく、そのバッジがどんな記念であったか、そしてその時の自分の想いを熱く語ってくれた。

 でも英語がわからず、何の記念だったのかは全くわからなかった。順調な選手生活の始まり、でも英語がわからん日々はまだまだ続くのであった。

チームの集合写真=2000年、9月
チームの集合写真=2000年、9月
鈴木 弘子 すずき・ひろこ

名前 :鈴木 弘子 すずき・ひろこ

プロフィール:女子プロフットボール選手。日本の女子クラブチーム・レディコングでアメリカンフットボールを始め、2000年、米女子プロリーグのトライアウトに合格し、日本人初のプロ選手となる。2012年にはサンディエゴサージでチームを優勝に導いた。

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