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週刊TURNOVER

共同通信社が運営するアメリカンフットボール専門のウェブマガジン。国内外のフットボールを紹介するベテラン記者のコラムや、国内注目試合の見どころやリポートなどを毎週掲載する。監修は共同通信記者で、NFLの解説者でもある宍戸博昭。

組織づくりに腐心した三隅珠一さん 関西高校タッチフットボールの父

2017.1.18 10:35 丹生 恭治 にぶ・きょうじ
中学日本選手権で対戦した関西学院中学部と佼成学園中=1月9日、富士通スタジアム川崎
中学日本選手権で対戦した関西学院中学部と佼成学園中=1月9日、富士通スタジアム川崎

 つい先日、母校関西学院の同窓会東京支部から、中学部のタッチフットボール部がこっちへ来るからみんなで応援に行こう、というメールが届いた。

 出身校でありながら中学、高校、大学と10年間を関学で過ごした人間としては、最終学歴の大学チームの成績には力が入るものの、中学、高校はついパスしてしまうことが多い。

 先輩としては誠に申し訳ない次第だが、その辺の反省から今回は友人と連れ立って川崎の富士通スタジアムへ応援に出かけた。

 1934年生まれの爺サマから見ると「これが中学生か」と言いたくなるほどでかい。私も昔はラインだった。それもセンターだ。当時としては極めて標準的な体格で、決して小さくはなかったのだが、川崎で出会った後輩諸君はみな例外なく見上げるような感じだった。

 これで当たり合ったら飛ばされるな、と思いながらひょいと見上げると、いかにも少年らしくてかわいい。その選手が透き通るような表情でにっこり微笑んでくれた。

 その昔、ここはプロ野球のフランチャイズスタジアムで、セ・リーグの大洋ホエールズ、現在の横浜DeNAベイスターズが陣取っていた。

 その意味で極めて懐かしいスタジアムである。フィールドの北側になだらかな芝生席があるが、昔はそこがネット裏席で、その最前列に二列の記者席があった。

 プロ野球の担当記者だった当時、大洋があの「三原マジック」で優勝を遂げ、この狭い球場で日本シリーズが開かれることになった。パ・リーグは戦後を代表する強打者だった別当薫が率いる大毎オリオンズ。だがシリーズはパ優位の予想を根底から覆し、大洋が4戦全勝、すべて1点差で勝負をつけた。

 この結末にオーナーの永田雅一さんが激怒した。監督のクビが飛んだ。後任人事などの取材のため、京橋の大映本社、球団事務所があった南千住の東京スタジアムを連日行ったり来たりしている最中に、あの防衛庁での三島由紀夫の割腹事件が起きた。

 取材とは直接の関係はないのだが、取り囲んだ報道陣を前に永田雅一氏が興奮気味に「これこそ真の男だな」と所感を述べたのを今でも覚えている。

 余談は置いて、メインスタンドに陣取り、50ヤード線から真っ直ぐ上がったところに腰を据えていつも通りに観戦した。

 ラインが押し気味だったこともあってひやひやすることはなかった。母校の「中学日本一」を楽しみながら、そのタッチフットボールの育成に力を注いでこられた日本連盟理事長の三隅珠一さんを思い出していた。

 日本アメリカンフットボール五十年史に「歴史を刻んだ監督」として三隅さんのページがある。肩書は初代日本タッチフットボール連盟理事長。関西協会の専務理事を務められた古川明さんが、その略歴と人となりについて記しておられるので、引用させていただいた。

 三隅さんは戦時中の1942年(昭和17年)大阪の名門校の一つ府立生野中学を出て教育の道を目指し、1945年に東京高等師範を卒業。同年9月、大阪府立池田中に体育の教官として着任した。

 翌46年秋、米軍軍政部のピーター岡田氏がフットボール手ほどきのため、大阪府立の豊中中、池田中に現れた。

 三隅さんはこの時、タッチフットボール部の顧問として岡田さんの要請を受け止め、タッチフットボール発展のためにあらゆる努力を払われた。

 無論、チーム作り、選手の育成のほか、その優れた語学力を生かして、必要な原書を翻訳された。とりわけルールには最も力を注がれ、「公式タッチフットボール規則」をいち早くまとめ上げられ、今日の基礎を作り上げたのが最大の功績だった。

 ご自分でプレーされたことはないにもかかわらず、岡田氏の指導を正面から受け止め、専門書を翻訳して得た知識で、高校選手の技術的指導もされるという有能多才な方でもあった。

 この時指導を受けた多くの選手が大学へ進み、そのまま戦力となったのには驚くほかない。第4回、第5回の甲子園ボウル連覇を果たした関学の主力選手の名を挙げてみると、この指摘が的中しているのが、よくわかる。

 三隅さんは後に大阪教育大学、大阪府教育委員会などでの勤務を経て関西大学教授に迎えらえているが、さあこれからという時期に、突然亡くなられたのははなはだ残念だった。

 私たちへの接し方は極めて紳士的だった。高校チームの監督としてライスボウルの西軍メンバーを選び、その多数が顔をそろえる関学で練習するわけだが、そこに終始立ち会うといった交わりがあった。

 私たちは三隅さんに普段接していた大学生と同じような態度で話しかけ、冗談を投げかけた。その練習の和やかさなどは、今思い出しても懐かしい。

 3年生の時にはカメラを持参され、選手一人一人のフォームを撮影しておられたが、今思うと技術書づくりの材料集めではなかったかと思う。

 こうしたあらゆるタッチフットボールに関する作業に、三隅さんは骨身を惜しむことなく力を注がれた。しかし最も早く手を染めながら、はかばかしい進展を見ず、一番苦労されていたのは結局は組織づくりではなかったかと思う。

 西宮球技場でも、花園ラグビー場の補助グラウンドでも、三隅さんをよく見かけた。いつも忙しげだった。

 チェーン持ちを頼まれることもよくあった。試合当日のすべての作業は三隅さん一人にのしかかっていた。三隅さんがいなければどうにもならなかったのである。

 三隅さんにちなんだ「三隅杯」は、全国高校選手権(クリスマスボウル)の最優秀バックに贈られる賞として、スポーツファンには知られている。

丹生 恭治 にぶ・きょうじ

名前 :丹生 恭治 にぶ・きょうじ

プロフィール:1934年生まれ。関西学院大学卒業後、東京新聞社で運動記者としてスタートし、1962年に共同通信社へ移籍。著書に、中学時代から関学で親しんだアメリカンフットボール生活を描いた「いざいざいざ」がある。甲子園ボウルには高校時代と合わせて6度優勝。

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