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週刊TURNOVER

共同通信社が運営するアメリカンフットボール専門のウェブマガジン。国内外のフットボールを紹介するベテラン記者のコラムや、国内注目試合の見どころやリポートなどを毎週掲載する。監修は共同通信記者で、NFLの解説者でもある宍戸博昭。

攻守に秀でた「関学の大看板」 殿堂入りした木谷直行さん

2018.2.15 11:51 丹生 恭治 にぶ・きょうじ
殿堂入りした関学大OB木谷直行さん=写真提供・奥井常夫さん
殿堂入りした関学大OB木谷直行さん=写真提供・奥井常夫さん

 

 妙な言い方になってしまうのだが、木谷直行さんの殿堂入りが決まったとき「落ち着くところへ落ち着いた」という気持ちを強く抱いた。

 第1回の米田満さん、前回の武田建さんに続いて、関学を作り上げてきた人々が、これで出そろったな、と思った。

 

 米田さんは現役時代、シングルウイングバック・フォーメーションのQBであり、守備ではセーフティーだった。優れた反射神経を持った名選手だった。

 卒業後、フットボールの指導者として部の土台を構築し、組織を組み上げ、空気を醸し出し、チームのあるべき姿を描き出して見せた。いわば基礎作りの功労者だった。

 

 武田さんは初期の「T」のQBとして研鑽を積み、理詰めのフットボールを展開した。
 木谷さんはこの二人の後継者として王道を歩み、圧倒的な存在感を示した。

 ポジションは攻守ともガードだったが、その位置を示す言葉だけでは説明できない、幅広い役割を示し続けた。攻守にわたる関学の特徴、とりわけその守備力について語るときに、外せない存在である。

 

 木谷さんは私の同級生である。しかし、今回の殿堂入りに際して、そこで紹介された略歴が、どなたの手になったのか、かなり無責任だったのには驚いた。

 今後、日本のアメリカンフットボールが長きにわたって語り継がれるとき、歴史に残さねばならない人物について、常に誤った情報しか残らなくなってしまう危険を感じる。

 例えば、いきなり10年選手とあるが、木谷さんが関学の中学部に来られたのは2年からの編入で、関学で学ばれたのは正しくは9年間なのである。

 また創部メンバーとあるが、これも前回書いた通り、1年生からフットボールに親しんできた私どもの同級生の鈴木智之さんに帰するべきなのは言うまでもない。

 

 ライスボウルの取材に出かけてこの「記者発表会資料」を手にし、公式の文書だけに「こりゃまずいぞ」と思った。
 大学に在籍した4年間が無敗であったとの表現もある。殿堂入りする人を飾っているつもりかもしこれないが、1年生当時の極東空軍との試合では0―19と完敗しているし、3年生当時の甲子園ボウルは、日大との26―26の引き分けゲームである。

 無敗とのくくりでいえば引き分けは誤りではないが、無敗については「国内のチームに対して」といった「注釈」をつけるのが普通であろう。これでは全体の信用にも響いてくる。

 

 略歴関連で行数を費やしたが、木谷さんは先に書いた通りの名選手であった。アメリカンフットボールの世界では、とかく荒々しさとか、逞しさとか、強さといった「力」に比重を置いた表現が褒め言葉として用いられるのが普通だが、木谷さんの場合は、そのプレーを飾る言葉として「速さ」「読みの深さ」「賢明さ」といった言葉を使いたくなる。

 昔の話になるが、日大と毎年のように戦ってきた関学の一員として、東京に職を得てからよく日大の下高井戸のグラウンドへお邪魔していた。

 私どもが4年生のときの日大の主将が、ガードの栗原満義さんで卒業してからは、同学年のよしみもあって、随分親しくしていただいた。

 

 この栗原さんがあるとき関学のラインについて「負けたとか、やられたと思ったことは一度もなかった。だが、穴は開かなかったし、押せたこともなかった。目標とする相手が、突然いなくなる。消えてしまうんだ。あれにはまいった」とおっしゃられたことを、今でも鮮明に覚えている。

 

 この関学サイドの立役者が木谷さんだった。恐らく彼を正面に迎えた相手のガードは、飛ばされたり、押し負けたりしたことはほとんどないだろうと思う。

 しかし、だからといって彼をコントロールできたこともなかったに違いない。栗原さんが言っておられるのは、木谷さん一人のことではなくて、当時の関学のライン全体の話なのだが、練習での木谷さんの動きが、いつの間にか当時の関学全体の無理のない守備の動きになって表れていたわけで、外からは見えないエピソードとして、私は興味深くうかがったのである。

 

 当時の守備は最前列6人、LB2人、左右のDB、最も深いところに1人の「6―2―2―1」か「5―3―2―1」のフォーメーションが普通だった。

 守備のガードを務める木谷さんは後者が好みだった。位置する場所はセンターの正面。当時のルールでは手を使えるかどうかが、攻撃陣と守備陣の間の厳格な違いだった。

 木谷さんはこの違いをフルに生かして暴れ回った。手を伸ばして相手のヘルメットを押さえ、相手と自分の体の間に、自由に動けるだけのスペースを常に確保して、走路に立ちふさがり、ブロックの隙間をすり抜けて、存分にその役目を果たしていた。

 

 なぜ5―3が好みだったかというと、木谷さんはこともなげにこう語っていた。「私の位置はセンターの正面や。センターはブロックしにくる前にもう一つ仕事があるやろ。これを利用せんと嘘や」

 センターがスナップするわずかな隙を突け、というわけである。6―2だと5―3以上に左右にも注意を払う必要が生じて、自らの動きが阻害されるからだとも語っておられる。

 ともかく、この木谷さんをコントロールできたチームは、当時どこにもなかった。逆に練習で散々木谷さんに苦しめられた当方としては、木谷さんのような選手など相手チームのどこにもいない試合は、天国のようなものだった。

 

 一事が万事、プレーのあらゆる点に一工夫も二工夫もする人さんだった。センターを揺さぶりに来ないことなどまずなかった。味方でよかったと正直思う。

 

 関学の攻守に染みついた細かい策がこれまでの40年、50年の間に対戦相手に対してどれでけ成果を挙げてきたことか。

 工夫とその実践、実行でチームをリードし続けたこの大事な友と、試合を観戦しながら語り合う楽しみがいつまでも続いてくれることを願っている。

丹生 恭治 にぶ・きょうじ

名前 :丹生 恭治 にぶ・きょうじ

プロフィール:1934年生まれ。関西学院大学卒業後、東京新聞社で運動記者としてスタートし、1962年に共同通信社へ移籍。著書に、中学時代から関学で親しんだアメリカンフットボール生活を描いた「いざいざいざ」がある。甲子園ボウルには高校時代と合わせて6度優勝。

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