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週刊TURNOVER

共同通信社が運営するアメリカンフットボール専門のウェブマガジン。国内外のフットボールを紹介するベテラン記者のコラムや、国内注目試合の見どころやリポートなどを毎週掲載する。監修は共同通信記者で、NFLの解説者でもある宍戸博昭。

殿堂入りした「守備の名人」 関学中タッチフットボール創始者、鈴木智之さん

2018.2.7 14:38 丹生 恭治 にぶ・きょうじ
関学大とプリンストン大の試合を観戦する鈴木智之さん(右)。中央は鈴木さんと一緒に殿堂入りしたチャック・ミルズさん=写真提供:丹生恭治さん、2015年3月21日・キンチョウスタジアム
関学大とプリンストン大の試合を観戦する鈴木智之さん(右)。中央は鈴木さんと一緒に殿堂入りしたチャック・ミルズさん=写真提供:丹生恭治さん、2015年3月21日・キンチョウスタジアム

 

 2018年の1月3日、つまりライスボウルの当日、日本の「アメリカンフットボール殿堂」入りの11人の方々が発表された。

 アメリカンフットボールの殿堂は、日本のアメリカンフットボールの父、ポール・ラッシュ博士ゆかりの地、山梨県清里の「ポール・ラッシュ記念館」に1996年に設立され、これまでに25人が殿堂入りしている。今回は新たな顕彰者11人の中に、私の同級生が2人選ばれた。

 

 一人はラインで主将を務めた木谷直行さんで、もう一人がQBの鈴木智之さんだ。誠に当を得た表彰で大いに祝福するが、このうち鈴木さんは既に故人となっているのが、誠に残念でならない。

 

 鈴木さんとは関学の中学部に入ったときからずっと一緒だった。ライスボウルでの発表に際して、中学からフットボールを開始となっているが、ここはもっとはっきり、関学中学部のタッチフットボール部の創設者とした方がいい。

 今では完全に禁止だが、終戦後の一時期、関学の中央芝生でアメリカンフットボール部が練習をしていた。

 この事実を知る人は、もうほとんどいなくなったが、当時は薄汚れたジャージーに、いかつい防具をつけた大学チームのオッサンたちが、楕円形のボールを投げ、受け、持って走り蹴っていた。

 

 この異様な姿が中学部で学ぶ少年たちを、勉学の帰路に引き付けたのは、むしろ当然といえる。鈴木さんはここで次第にフットボールの面白さに目覚めていった。

 当時も、豊中市から関学中学部へ通う生徒は結構多かった。その中にスポーツ大好きで集まるグループが誕生した。

 阪急電車の宝塚線曽根に鈴木さんと私、隣駅の岡町に芳村昌悦さんと西村一朗さん。

 2年生になるころ岡町組と私の3人はサッカーを始めたが、鈴木さんは私たちの誘いを頑として跳ねつけて、タッチフットボールに専念した。

 

 主将の渡辺年夫さん、米田満さん、井床由夫さん、花谷雄弘さんら大学の選手の方々は、練習に近寄ってくる

 こうした少年たちをいやな顔一つしないで迎え入れ、練習を黙って見学させていた。鈴木さんがその中でフットボールにどっぷりとつかることとなった。

 3年生になったとき、私たちサッカー組は鈴木さんに引っ張られてタッチフットボールへ参加した。人数を数えるとギリギリだが、試合ができるまともな組織が、ここで誕生した。

 

 私たちはこのあと高校、大学とフットボールに没頭した。卒業するまでの間、それなりの成績を残すことができたが、その中心は鈴木さんだった。

 先にも書いたが、鈴木さんはQBである。関学は当初はシングルウイングバックだったが、私たちは高校2年の初めにTフォーメーションの採用に踏み切り、それ以後は「T」に没頭した。

 

 新しいことに積極的だった鈴木さんは、堪能な英語を武器に、数多くの資料を読み解き、
実戦的にも理論的にも一流のQBとしての地位を確立した。

 QBというからには投げられなくてはならない。中学時代から自宅前の道に米俵の一部を吊るして楕円形のボールを投げてコントロールを磨いていた鈴木さんのパス力は群を抜いていた。しかも受けやすかった、とコンビを組んだ西村さんが手放しで褒める。走っても他のバックスと引けを取らない技術があった。

 

 チームの方針として積極的にQBのランをプレーに入れていなかったが、鈴木さんのとっさのスクランブルは見事だった。

 さてここで書いておかねばならないのは、鈴木さんのQBとしての技量の話ではない。守備の名人だったという点である。

 ライスボウルで配布された紹介文にはラインバッカ―とあるが、攻守二役が当然の昭和20年代では、QBはDB、それもセーフティーと決まっていた。

 ただ、鈴木さんの場合はストロングセーフティーとするのが最も適しているようだ。
当時、TEはおおむねラインの右に位置することが多く、DBの鈴木さんはその正面に位置することが多かった。DBとして動きが的確で速かったことは、まず強調しておかねばなるまい。

 

 センターの私は2列目に下がって右のラインバッカ―をしていたが、プレーが始まってすぐ、私の左側をスピード豊かに駆け抜けて右のオフタックルあたりへ上がってくる相手のRBを、一撃で仕留める技は鮮やかだった。

 

 今ほどパスが投げられていない時代である。バックスがそう簡単に上がれる訳がない、と言ってしまえばそれまでである。

 しかしこのような全体の傾向を把握した上で、相手の出鼻をくじく動きは、そう簡単にできるものではない。

 「どっちへ動くか、どっちへ来るかは、相手のラインが教えてくれるやないか。それ見て、判断して動いとるだけや」とご本人はこともなげにおっしゃるが、このあたりの「目」は確かに一流だった。

 

 もう少しパスのあるチームと対戦した上で、この時のDB陣、鈴木さん、北村昇さん、大藤努さんらがどのような守り方をしたかを尋ねてみたい気がするものの、時代を考えるとまさしく無いものねだりだろう。

 

 ライスボウルでの殿堂入りの紹介では、こうした関学勢のほかに野村正憲さんの名があった。

 立教大学の誇る「T」のQBとして、私たちの世代では特別な感慨を持って語られてきた名手である。

 私たちはこの方が卒業したすぐ後の立大と甲子園ボウルで戦い、幸い19―7で勝利を収めることができた。

 「野村さんと戦いたかった」。私たち関学の卒業生が、憧れを持って語るのは、いささか「ええかっこしい」だが、このDB陣なら意外と互角に渡り合えたかもしれないと思う。

 

 鈴木さんの一工夫は、ご本人のチャージとか、北村さんとゾーンを分け合うとか、あれこれ考えられるが、鈴木さんの性質からいえば、かなり積極的な手を考案していたような気がする。
 今後「守備の人鈴木さん」の名が高まってくれば何よりである。

丹生 恭治 にぶ・きょうじ

名前 :丹生 恭治 にぶ・きょうじ

プロフィール:1934年生まれ。関西学院大学卒業後、東京新聞社で運動記者としてスタートし、1962年に共同通信社へ移籍。著書に、中学時代から関学で親しんだアメリカンフットボール生活を描いた「いざいざいざ」がある。甲子園ボウルには高校時代と合わせて6度優勝。

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