「戦争責任」いわれ辛い 昭和天皇 素顔の27冊

小林忍侍従
「戦争責任」いわれ辛い 昭和天皇 素顔の27冊

側近記した昭和天皇の肉声
27年分、1年掛けて分析
 小林忍侍従日記

 昭和が幕を閉じてから約30年。昭和天皇の身の回りの世話をする侍従を長年務めた故小林忍氏の日記が見つかった。昭和天皇が、晩年まで戦争責任を巡り苦悩する姿や、動植物の研究者としての探究心や家族への温かなまなざしが克明に記されている。1974年から2000年までの27冊に、側近が見た昭和天皇の日常が凝縮している。貴重な昭和後半史として、一連の記事を新聞紙面だけでなく、ウェブ上でも共有したい。(共同通信・小林忍侍従日記取材班)
 日記には、昭和天皇の生の言葉が緻密な文字で書き留められている。
 「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。(中略)戦争責任のことをいわれるなど」。昭和天皇が1987年4月、小林氏に漏らした言葉だ。死去する約2年前のことだった。
 日中戦争や太平洋戦争を経験した昭和天皇が最晩年まで責任を気に掛けていた心情が改めて浮き彫りになった。当時、宮内庁は公務負担の軽減を検討していた。この年の2月には弟の高松宮に先立たれた。

1975年10月、ホワイトハウスで行われた歓迎晩さん会で、「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」と述べた昭和天皇。右はフォード米大統領=ワシントン(共同)

 日記には「天皇の涙」の記述も。昭和天皇は1975年9~10月に初の訪米を果たした。帰国後の記者会見で戦争責任について問われ、「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよく分かりません」と答え、責任逃れだと批判を浴びた。
 同年11月には入江相政侍従長から聞いた話として「御訪米、御帰国後の記者会見等に対する世評を大変お気になさって」いると記載。日記によると、初の米国訪問の成果に自信を失っていた天皇に、入江侍従長が「(米国での)素朴な御行動が反ってアメリカの世論を驚威的にもりあげた」と話したところ「涙をお流しになっておききになっていた」。人間としての天皇の苦悩や、側近との心の交流が率直に伝わる記述だ。

1985年4月10日 昭和天皇の視察先の下見をする小林忍氏(手前)=東京湾(遺族提供)

 小林氏は1923年、静岡県旧吉原市(現在の富士市)で生まれた。太平洋戦争中、旧制姫路高校の学生だった時に召集され、陸軍航空部隊で基地間の通信などを担当。戦後、人事院を経て、50歳の時に宮内庁へ。昭和天皇の侍従になった。
 89年1月の昭和天皇の死去後も現天皇陛下や香淳皇后の側近として仕え、平成への代替わりも見届けた。宮内庁で約27年過ごし、2001年に離任。06年7月に83歳で病死した。

1990年11月12日の「小林忍侍従日記」。天皇陛下の「即位礼正殿の儀」を巡り、「ちぐはぐな舞台装置」と記されている

 共同通信・小林忍侍従日記取材班は昨年、小林氏の遺族から日記27冊の他、関連する資料や写真を預かった。昭和史に詳しい作家の半藤一利氏、ノンフィクション作家の保阪正康氏と共に約1年かけて分析を進めてきた。細字の万年筆を使い、米粒大の小さな文字がびっしり書き込まれた日記はすべてA5サイズ。取材チームの中には老眼気味の記者もおり、日記をA3サイズに拡大コピーした上で、少しずつ読み進めていった。
 読み込みと平行し、日記に書かれた事実やその背景を、可能な限り、他の文献や資料で確認する「裏取り」の作業を進めた。参照したのは宮内庁が編纂した昭和天皇の活動記録「昭和天皇実録」、小林氏の先輩侍従だった卜部亮吾氏が残した「卜部亮吾侍従日記」、新聞各社の過去記事など。存命者は少ないが、小林氏を直接知る皇室関係者や、共同通信のOBで当時の宮内庁担当記者にも話を聞いた。
 日記には、業務で出席した宮中晩さん会のメニュー一覧や、皇室関係の新聞記事の切り抜きも。皇居でのさまざまな出来事に常にアンテナを張り巡らせていたのだろう。「メモ魔」できまじめな人柄が浮かぶ。保阪氏は「虚飾なく書いている」、半藤氏は「徹底的に実務的。(作家の故)松本清張なら『これは信頼できる』と言って喜びそうだ」と評した。

 終戦から73年。平成最後の夏が去った。来年5月には新天皇が即位し、皇室も新たな転機を迎える。日記の公開に当たり、遺族は「きちょうめんな性格の父が宮中の日々を詳しくつづった。昭和の歴史の一端を改めて人々に理解してもらえたら幸いです」とのコメントを寄せた。

作家陣のコメント

 

すごい言葉だ

 昭和天皇の「細く長く生きても仕方がない。(中略)戦争責任のことをいわれる」というのは、すごい言葉だ。昭和天皇の心の中には、最後まで戦争責任があったのだとうかがわせる。
小林忍(こばやし・しのぶ)さんは昭和天皇との距離が(比較的)遠い。その代わり、この日記が面白いのは、あからさまに書いてあること。天皇の病状の悪化以降、日記が光彩を帯びてくる。他の人の日記には出てこない。
昭和天皇の周辺の人々や宮中で何が起きているかについて、官僚の目でクールに見ている。若かったこともあるが、現人神としての天皇から脱却している。天皇、皇后、皇太子夫妻に対しても畏れ多いという気持ちがあまりない。リアリスティックに昭和天皇の日常を書いたという意味では、大変面白く貴重だ。

作家 半藤一利氏
 

昭和天皇、戦後の道筋

 「細く長く生きても仕方がない」という言葉は、昭和天皇本人から直接聞いた言葉だから強さがある。戦争責任を晩年まで気にしていたことが裏付けられる。
訪米の世評を気にして昭和天皇が涙を流したことも書いているが、こうした人間的な感情が湧いてくると言うのは、(戦前に学んだ)帝王学から次第に遠ざかっていったということではないか。
天皇が人間になっていく。涙を流すようになるのが戦後の道筋なのだと。小林忍(こばやし・しのぶ)さんの日記は、それを語っていると言える。細部が書かれているのでよく分かる。
小林さんは、想像で書くことがない。天皇への愛着より、仕事として見ている。与えられた場で、状況をきちんと理解して仕事をする人。事実を虚飾なく書いており、日記の記述は全面的に信頼を持てると思った。

ノンフィクション作家 保阪正康氏

キーワードで見る小林忍侍従日記

  • 戦争
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  • 証言
  • 緻密
  • 解説
  • 01戦争責任言われ「つらい」

    昭和天皇85歳、心情吐露 「長く生きても」と弱音 故小林忍侍従の日記

     昭和天皇が85歳だった1987(昭和62)年4月に、戦争責任を巡る苦悩を漏らしたと元侍従の故小林忍(こばやし・しのぶ)氏の日記に記されていることが分かった。共同通信が22日までに日記を入手した。昭和天皇の発言として「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛(つら)いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる」と記述している。
    日中戦争や太平洋戦争を経験した昭和天皇が晩年まで戦争責任について気に掛けていた心情が改めて浮き彫りになった。小林氏は昭和天皇の側近として長く務め、日記は昭和後半の重要史料といえる。
    87年4月7日の欄に「昨夕のこと」と記されており、昭和天皇がこの前日、住まいの皇居・吹上御所で、当直だった小林氏に直接語った場面とみられる。当時、宮内庁は昭和天皇の負担軽減策を検討していた。この年の2月には弟の高松宮に先立たれた。
    小林氏はその場で「戦争責任はごく一部の者がいうだけで国民の大多数はそうではない。戦後の復興から今日の発展をみれば、もう過去の歴史の一こまにすぎない。お気になさることはない」と励ました。
    既に公表されている先輩侍従の故卜部亮吾(うらべ・りょうご)氏の日記にも、同じ4月7日に「長生きするとろくなことはないとか 小林侍従がおとりなしした」とつづられており、小林氏の記述の趣旨と符合する。
    日記には昭和天皇がこの時期、具体的にいつ、誰から戦争責任を指摘されたのかについての記述はない。直近では、86年3月の衆院予算委員会で共産党の衆院議員だった故正森成二(まさもり・せいじ)氏が「無謀な戦争を始めて日本を転覆寸前まで行かしたのは誰か」と天皇の責任を追及、これを否定する中曽根康弘(なかそね・やすひろ)首相と激しい論争が交わされた。
    88年12月には長崎市長だった故本島等(もとじま・ひとし)氏が「天皇の戦争責任はあると思う」と発言し、波紋を呼ぶなど晩年まで度々論争の的になった。
    昭和天皇は、87年4月29日に皇居・宮殿で行われた天皇誕生日の宴会で嘔吐(おうと)し退席。この年の9月に手術をし、一時復調したが88年9月に吐血して再び倒れ、89年1月7日に亡くなった。
    小林氏は人事院出身。昭和天皇の侍従になった74年4月から、側近として務めた香淳皇后が亡くなる2000年6月までの26年間、ほぼ毎日日記をつづった。
    共同通信が遺族から日記を預かり、昭和史に詳しい作家の半藤一利(はんどう・かずとし)氏とノンフィクション作家の保阪正康(ほさか・まさやす)氏と共に分析した。(日記の引用部分の表記は基本的に原文のまま)

  • 02訪米後、世評に涙

    戦争への思いで苦悩

     昭和天皇の肉声を伝える「小林忍(こばやし・しのぶ)侍従日記」が見つかった。懸命に励ます側近トップの侍従長と涙を流す天皇―。戦争への思いと現実とのはざまで苦悩する昭和天皇の姿が、はっきりと描かれている。
     ■ 訪米と涙  「天皇の涙」の記述があるのは1975年11月。入江相政(いりえ・すけまさ)侍従長から聞いた話として「御訪米、御帰国後の記者会見等に対する世評を大変お気になさって」いると書いている。
     昭和天皇はこの年の9~10月、米国を初訪問した。3年前にニクソン米大統領から招請を受けたが、日米関係改善を狙う田中角栄内閣に対し、宮内庁の宇佐美毅(うさみ・たけし)長官が「天皇の政治利用だ」と反対し、拒否したいきさつがあった。
     それ以前、戦後初の外遊となった71年の欧州訪問では、現地で戦争責任に関連して抗議行動に遭った経験もある。それだけに、神経をとがらせた末の歴史的訪米となった。歓迎晩さん会では「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」との表現で、戦争への遺憾の気持ちを表明した。大規模な抗議行動はなく、好意的な反応も多かった。  ところが、帰国後の10月、記者会見で戦争責任について問われ「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよく分かりません」と答えてしまい、責任逃れだと批判を浴びた。
     小林日記によると、訪米の成果にも自信を失っていた天皇に、入江侍従長が「(米国での)素朴な御行動が反(かえ)ってアメリカの世論を驚威的にもりあげた」と話したところ「涙をお流しになっておききになっていた」。人間としての天皇の苦悩や、側近との心の交流がストレートに伝わる記述だ。  「入江相政日記」はこの間のいきさつについて、訪米発表時には米国の新聞が全然取り上げなかったのに「ああまで変った」と表現。「一重(ひとえ)にお上(かみ)のお徳によるものと申上げ自信をおつけする。お涙を出してお喜びだった」とつづられている。
     ■ 同情  小林日記には、宮内庁幹部と意向が一致せず、天皇が押し切られる様子も書かれている。
     80年5月27日には、来日中の中国の華国鋒首相との引見と宮中晩さん会があったが、日記は「陛下は日中戦争は遺憾であった旨先方におっしゃりたいが、長官、式部官長は今更ということで反対の意向とか」と記述。
     小林氏は天皇に同情を寄せて「国際的に重要な意味をもつことに右翼が反対しているから、止めた方がよいというのでは余りになさけない。かまわずお考えどおり御発言なさったらいい」「大変よいことではないか」とまで記している。
     しかし、天皇の思いは生かされることなく、晩さん会でのお言葉は次のようなものに終わった。
     「この意義ある御来訪によって、日中交流の歴史は、新たな一ページを開くことになると確信いたします。貴国と我が国が、今後末永く相携え、世界の平和と繁栄のために、貢献してゆくことを、願ってやみません」
     ノンフィクション作家の保阪正康(ほさか・まさやす)氏は今回の日記を「帝王が人間へと変わっていく過程が描かれている」とみている。戦争に苦悩し、人前で涙を流す昭和天皇。その姿を浮かび上がらせる貴重な史料が、平成最後の夏に見つかった。(日記の引用部分は基本的に原文のまま)

  • 03デモ混乱なく「よかった」

    沖縄、終生気に掛ける

     昭和天皇は戦後、太平洋戦争で激しい地上戦の舞台となった沖縄への訪問を強く希望したが、かなわなかった。「小林忍(こばやし・しのぶ)侍従日記」でも、戦後、米軍施政下に置かれた「南国の地」を気に掛けていた心情がうかがえる。
    「『それはよかった。それはよかった』と非常にお喜びだった」。1975年4月28日の記述。この日は、52年にサンフランシスコ講和条約が発効し、日本が独立を果たした一方、72年の本土復帰まで米軍施政下に置かれた沖縄県にとって「屈辱の日」でもある。日記の記述からは、昭和天皇が小林氏に、デモによる混乱の有無を尋ね「何もなかった旨」の返答を受け、安堵(あんど)した様子が分かる。
    昭和天皇は47年9月、側近を通じ、連合国軍総司令部(GHQ)に「米国が沖縄の軍事占領を継続することを希望する」と伝えた。79年に明らかになった昭和天皇の「沖縄メッセージ」として知られ、「沖縄を切り捨てた」との批判も出た。
    宮内庁がまとめた昭和天皇実録の75年4月16日の記述は、昭和天皇が「訪米前に沖縄に行くことはできないか」と宇佐美毅(うさみ・たけし)宮内庁長官に尋ねていたことに触れている。半年後にかつての戦争相手国だった米国への訪問を控えていた時期だった。
    87年10月には、国体開催に合わせ、天皇としての沖縄への初訪問が計画されたが、体調を崩し皇太子夫妻だった天皇、皇后両陛下が名代として出席した。
    昭和天皇はこの時の悔しさを和歌に込めた。
    思はざる病となりぬ沖縄をたづねて果さむつとめありしを
    88年4月の記者会見でも「健康が回復したならば、なるべく早い時期に訪問したい」と語っていた。

  • 04生物学者の鋭い観察眼

    研究削減「賛成しかねる」

     生物学者としても知られる昭和天皇は、海洋生物や植物の研究を長年のライフワークとしていた。「小林忍(こばやし・しのぶ)侍従日記」からは、晩年の昭和天皇が皇居などで見つけた植物を慈しむ一方、学者としての鋭い観察眼と研究への熱意を生涯持ち続けた姿が浮かぶ。
    生物学研究は皇太子時代から始まり、即位後の1928年に皇居内に「生物学御研究所」を設立。海洋生物の他、皇居や那須(栃木県)、須崎(静岡県)の御用邸で採集した植物の標本を保存し、研究を続けた。
    日記には、皇居や御用邸での日々の中で見た植物に関する昭和天皇の言葉が目立つ。79年8月17日に那須御用邸に滞在した際は、庭を散策中にマルバダケブキの花を見て「もう咲いているところから、今年の秋は早く、寒さが早くくるのではないか」と予測。81年5月5日には皇居で満開のレンゲツツジを目にし「毒なので山野(那須でも)では馬も食べない」と解説している。
    学者としてこだわる一面もあった。85年6月27日に訪れた国立科学博物館筑波実験植物園(茨城県つくば市)では、観賞した秋の七草の一つカワラナデシコは、同種のハマナデシコではないかと疑問を持ち、小林氏が園長に確認している。
    昭和天皇は87年から体調を崩し、負担軽減策が議論された。この年4月6日の日記によると、昭和天皇は研究の削減案には「賛成しかねる」と不満を漏らしている。
    88年に容体は一進一退となった。同年2月9日の日記には、出版予定の「皇居の植物」の原稿を手にした昭和天皇が修正の注文や質問をする様子が記され「根をつめて御検討なので御疲れが出るのではないかと心配される」と書き留められている。その後も、原稿の修正を指摘する様子が何度か登場する。
    昭和天皇の最後の著書となった「皇居の植物」は、死去から10カ月後の89年11月に完成し、昭和天皇の武蔵野陵(むさしののみささぎ)にも納められた。小林氏は同月29日に「立派なできばえ」と記した。

  • 05大嘗祭「神秘的」

    代替わり儀式も詳述

     昭和天皇が亡くなると、葬儀に当たる「大喪の礼」や、皇太子だった天皇陛下の即位に伴う「即位の礼」「大嘗祭(だいじょうさい)」などの儀式が行われた。「小林忍(こばやし・しのぶ)侍従日記」は、準備から当日までの様子が詳細につづられており、大嘗祭については「神秘的」との記述も。来年の代替わりに向け、当時を知る貴重な記録でもある。
    1989年1月7日朝、昭和天皇は死去した。翌日の納棺に当たる「御舟入(おふないり)」から儀式が連日続き、22~24日には一般人がお別れをする「殯宮(ひんきゅう)一般拝礼」が皇居・宮殿で行われた。22日は約16万人が訪れ、小林氏は「国民の敬愛、哀惜の情の深いのを感ずる」とつづった。2月24日、新宿御苑(東京都新宿区)で大喪の礼が営まれた後、武蔵陵墓地(八王子市)に埋葬された。
    昭和天皇の服喪を経て、天皇陛下の即位に伴う儀式が執り行われた。即位を内外に知らせる即位の礼の中心儀式「即位礼正殿の儀」は90年11月12日に宮殿で行われ、22~23日は、皇位継承の重要祭祀(さいし)である大嘗祭の中心儀式「大嘗宮(だいじょうきゅう)の儀」が営まれた。
    皇居・東御苑に造営された祭場の大嘗宮は、警備費も含めて建設に約14億円の国費が充てられた。11月17日の日記には、大嘗祭の予行をする様子とともに、初めて見た大嘗宮について「仲々立派だが、14億円とはとても考えられない」という皮肉も記していた。
    大嘗祭は天皇が即位後、初めて行う新嘗祭(にいなめさい)だ。天皇の所作は秘密とされているが、その年に収穫された米などを神々に供え、天皇自らも口にして五穀豊穣(ほうじょう)に感謝する。
    儀式に加わった小林氏は大嘗宮の儀が行われた同22日と23日の日記に儀式の次第を詳述。夜に行われた幻想的な儀式を「神秘的な雰囲気」と書き残した。

  • 06侍従日記、貴重な証言

    昭和天皇の日常

     昭和天皇に仕えた侍従ら側近による日記は、「昭和史の証言」となってきた。共同通信が入手した「小林忍(こばやし・しのぶ)侍従日記」もその一つで、昭和の後半から終焉(しゅうえん)、平成への代替わりを見届けた貴重な記録だ。
    侍従とは、天皇の身の回りの世話をする側近。普段から近くに控え、天皇の住まいの御所で当直もこなす。さまざまな「ご下問(質問)」を受けるため、天皇の日常の言葉を聞く立場にある。
    小林日記には、小林氏が昭和天皇に仕えた1974年4月から、香淳皇后が亡くなる2000年6月までの宮中の日々が詳細につづられている。戦争責任の問題をはじめ、世相や植物について昭和天皇とじかにやりとりした重みがある。
    これまで公表された昭和天皇の侍従の日記では「入江相政(いりえ・すけまさ)日記」が著名だ。侍従長も務めた入江相政氏が1935年から85年まで記した日記。昭和天皇が亡くなった後に出版され、戦前戦後を通した昭和史研究の基礎資料となっている。
    「卜部亮吾(うらべ・りょうご)侍従日記」は70年から2002年までの記録として公表。卜部氏は小林氏と同じ人事院出身で、侍従としての経歴は小林氏の5年先輩。仕えた期間が小林氏に近く、小林日記でも同僚侍従として頻繁に名前が登場する。07年に発見され、昭和天皇が靖国神社の参拝をしなくなった経緯についての「A級戦犯合祀(ごうし)が御意に召さず」との記述が目を引いた。
    侍従ではないが側近の記録としては、戦後に初代宮内庁長官を務めた田島道治(たじま・みちじ)氏の日記などがある。長官を務めた富田朝彦(とみた・ともひこ)氏の「富田メモ」は、靖国神社参拝を巡り、昭和天皇の言葉として「だから私あれ以来参拝していない。それが私の心だ」とA級戦犯合祀への不快感を記録、不参拝の理由であることを明かしている。

  • 07緻密な性格、兵役も

    人事院から宮中へ

     昭和天皇に仕えた日々を、日記に詳細につづった元侍従の故小林忍(こばやし・しのぶ)氏は、緻密できちょうめんな性格だった。戦時中は通信兵として召集された経験を持ち、1974年4月、人事院から宮内庁へ。初めて飛び込んだ宮中でも生き生きと仕事に取り組んだ。昭和天皇が亡くなった後も、香淳皇后が他界した翌2001年6月まで宮中に仕えた。
    「『人生の転機になる。貴重な機会』との思いで引き受けたのではないか」と小林氏の長男は明かす。人事院時代、内閣に設けられた憲法調査会などの仕事をしていた小林氏に人事院を通じ侍従への打診があったのは50歳のときだった。
    小林氏の長男によると、背景には「天皇の戦争責任論の話が出た時に法的な観点で対応するため、法学部卒の侍従がほしい」との宮内庁の要望があったという。
    歴史への関心も相まって、四半世紀にわたる皇居での仕事は、興味深いものだったようだ。長男はこう振り返る。「宮中行事などに強い関心を寄せ、人事院時代より生き生きしていた」
    旧制姫路高校時代に臨時召集され、航空基地間の地上通信などを担当した。南方戦線に配属され、任地に向かう途中で犠牲になった同期生もいた。敗戦の玉音放送は陸軍省や大本営陸軍部などがあった東京・市谷の部隊兵舎の屋上で聞いた。
    戦後、京都大法学部で政治学を学び、学生時代は京都や奈良で古寺を巡ることに魅せられ、弓道に興じていた。

  • 08晩年まで大戦苦悩、克明に

    貴重な昭和後半史

     昭和天皇の侍従だった故小林忍(こばやし・しのぶ)氏の日記には、晩年まで戦争の影を引きずる天皇の苦悩が克明につづられている。アジアの国を侵略した大日本帝国を率い、太平洋戦争の開戦と敗戦に臨んだ天皇の脳裏に刻まれた記憶が、最期まで頭から離れなかったことが改めて確認できる。貴重な「昭和後半史」だ。
    昭和天皇は「戦前も平和を念願しての外交だった」(1975年5月13日)と吐露したり、「細く長く生きても仕方がない」「戦争責任のことをいわれる」(87年4月7日)と弱音を漏らしたりしていた。戦時中、学徒動員された22歳年下で一侍従の小林氏に信頼を寄せ、胸中を直接、明かした。戦争責任を問う世評に神経をとがらせる内情がにじむ記述だ。
    アジアの国にも配慮を見せている。80年5月27日の記述には、国賓として来日した中国の華国鋒(か・こくほう)首相に「陛下は日中戦争は遺憾であった旨先方におっしゃりたいが、長官、式部官長は今更ということで反対の意向とか」とある。小林氏は昭和天皇の考えに賛意を示すが、幹部が、中国侵略を正当化する右翼の反発を懸念し、封印してしまう。
    戦前の青年将校によるクーデター未遂で閣僚らが犠牲になった「二・二六事件」(36年)があった2月26日は毎年、「慎みの日」としていた記述も多数ある。既に公になっているエピソードだ。「臣下」を失った悲しみは、癒えることはなかった。
    敗戦から73年。来年には「平成」も幕を閉じる。戦争の記憶が遠くなる中、昭和天皇が晩年、どういう思いで「大戦」に向き合ったのか、心奥に触れる価値ある日記だ。

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側近記した昭和天皇の肉声
小林忍侍従日記

 1974年4月〜2000年6月の昭和天皇の侍従、香淳皇后側近としての日記を1年掛けて分析。

『「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。戦争責任のことをいわれる」 と昭和天皇 』(87年4月7日の記述)
『戦争責任はごく一部の者がいうだけで国民の大多数はそうではない』と昭和天皇に小林忍侍従(同日の記述)

小林忍元侍従の長男の談話
「昭和史の一端、理解を」

 父の日記が世に出ることになり、大変感慨深いものがあります。(きちょうめんな)父の性格もあり、昭和天皇に仕えた宮中の日々を詳しくつづっています。昭和の歴史の一端を改めて人々に理解してもらえたら幸いです。

共同通信・小林忍侍従日記取材班
胸躍った「宝の山」

 久しぶりに胸が躍った取材だった。取材班が昨年8月、北海道に飛び、小林忍氏の遺族に初めて会った。遺族が持ち込んだ日記数冊をめくると、米粒大の字の中にやや大きく書かれた「戦争責任」の4文字が目に飛び込んできた。昭和天皇が亡くなる1年9カ月前の1987年4月、小林氏に「細く長く生きても仕方がない」「戦争責任のことをいわれる」と漏らした記述だった。私たちは「宝の山だ」と直感した。この日は顔合わせだけで後日に改めて日記全量を確認する約束だったが、すぐに「日記すべてを預からせてほしい」と申し出て、本社にキャリーバッグで運び込み、厳重に保管した。これが私たちの1年に及ぶ取材のスタートだった。

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