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ユウコセンセイの挑戦 ブラジル柔道率い、東京へ

2020.1.20 10:30 共同通信
練習で選手の動きを見るブラジル柔道男子代表監督の藤井裕子さん=2019年9月、リオデジャネイロ(共同)
練習で選手の動きを見るブラジル柔道男子代表監督の藤井裕子さん=2019年9月、リオデジャネイロ(共同)

 

 「コンセントラ(集中して)。ハジメ」。ブラジル・リオデジャネイロの五輪公園内にある柔道場に、ユウコセンセイのよく通る声が響いた。昨年9月初旬、リオ州の合同練習会。約50人の選手らが一斉に乱取りを始めた。


 藤井裕子さん(37)は2018年5月、ブラジル柔道の男子代表監督に女性として初めて就任。他国のチームを率いて20年東京五輪に乗り込む。「どんどんレベルを上げてきている選手たちと、母国に行けることを誇りに思う」と目を細める。

自ら選手と組み合って指導するブラジル柔道男子代表監督の藤井裕子さん=2019年9月、リオデジャネイロ(共同)
自ら選手と組み合って指導するブラジル柔道男子代表監督の藤井裕子さん=2019年9月、リオデジャネイロ(共同)

 

 出身地の愛知県大府市で、5歳から柔道を始めた。広島大大学院修了を機に選手を引退し、英バース大で柔道部のアシスタントコーチに就任した。指導力が認められ、10年には英国代表コーチに。さらに13年5月、ブラジル代表コーチに引き抜かれた。16年リオ五輪では、指導した女子のラファエラ・シルバが金メダルに輝いた。

 「選手としては芽が出なかったが、海外で第一線の選手らを指導する中で自分の弱さと向き合い、よみがえる機会を与えてもらった」と話す。

 初めは全く分からなかったポルトガル語を難なく駆使できるようになった。練習に参加したディエゴ・ダクルス(19)は「ユウコセンセイの教え方は反復と完璧を期するところが特徴。そこがブラジル人コーチと違う」と指摘する。

練習前に選手とあいさつするブラジル柔道男子代表監督の藤井裕子さん(左)=2019年9月、リオデジャネイロ(共同)
練習前に選手とあいさつするブラジル柔道男子代表監督の藤井裕子さん(左)=2019年9月、リオデジャネイロ(共同)

 

 メキシコの五輪代表チームなどを指導した経験があるブラジル人コーチ、アマデウ・デモウラ・ジュニオルさん(56)は「特に祖国と対戦するのはしんどい。しかし彼女はプロ。しっかり仕事している」と評価する。

 家庭では、英国で知り合い教員を辞めてリオに同行した夫の陽樹(はるき)さん(33)=群馬県沼田市出身=が、長男清竹(きよたけ)君(5)と長女麻椰(まや)ちゃん(2)の世話などで全面サポートする。

 「幼い子どもたちを安心して任せられる人がいるから、外で仕事に専念できる」(藤井さん)「大変な世界で戦うと同時に、母親として子どもになかなか会えないという二重の苦労がある」(陽樹さん)と互いを尊重し、いたわり合う関係だ。

藤井裕子さん(左端)と一緒に笑顔を見せる(右から)夫の陽樹さん、長男清竹君、長女麻椰ちゃん=2019年9月、ブラジル・リオデジャネイロ(共同)
藤井裕子さん(左端)と一緒に笑顔を見せる(右から)夫の陽樹さん、長男清竹君、長女麻椰ちゃん=2019年9月、ブラジル・リオデジャネイロ(共同)

 

 他国を率いることで逆風を感じることはない。日本のチームの関係者からは「ぜひ、打倒日本でやってくれ。それが日本や世界の柔道の発展につながる」と応援の言葉をもらっているという。

 昨年8~9月に東京で開かれた世界選手権では混合団体で銅メダル。「日本人移民から学んだ精神を受け継ぎポテンシャルがあるブラジルの柔道を、今は足元にも及ばない日本のレベルに引き上げたい」と今夏に照準を合わせた。(リオデジャネイロ共同=小西大輔)

真剣な表情で選手と対話するブラジル柔道男子代表監督の藤井裕子さん=2019年9月、リオデジャネイロ(共同)
真剣な表情で選手と対話するブラジル柔道男子代表監督の藤井裕子さん=2019年9月、リオデジャネイロ(共同)

 

二つの母国、誇りを胸に 日本生まれのサントス

 「僕にとって日本は母国のようなもの。でも東京五輪に出場できれば、ブラジルの誇りを持って挑みたい」。ブラジル・サンパウロの練習場で、柔道選手ユウジ・サントス(25)が自然な日本語で決意を語った。

ブラジルに渡って柔道選手になる道を選んだユウジ・サントス=2019年9月、サンパウロ(共同)
ブラジルに渡って柔道選手になる道を選んだユウジ・サントス=2019年9月、サンパウロ(共同)

 

 日系人の祖母を訪ねて来日した両親が茨城県下妻市に住み着き、サントスが生まれた。幼い頃から柔道を始めたが、19歳のときにブラジル国籍がネックとなりジュニアの全国大会に出場できなかった。これがきっかけで、ブラジルに渡って選手になる道を選んだ。

 最初はポルトガル語が全くできず、1人でバスにも乗れなかった。「ブラジル人はオープンで、親しくない相手にもなれなれしい」。日本の文化との違いに戸惑う日々が続いた。

 今では地元メディアのインタビューもポルトガル語で難なくこなし「逆に日本語を忘れかけている」と言う。地元クラブに所属。食事も含めて、現地にはすっかり溶け込んだ。

 昨年8月のパンアメリカン大会の81キロ級で金メダル。直後に東京で開かれた世界選手権では、日本の友人や恩師らが応援してくれた。「今でも連絡があり、支えてくれる。感謝の気持ちしかない」と笑顔を見せた。(サンパウロ共同=小西大輔)

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初メダリストは日本移民 国籍変更の石井千秋さん

 「ここは移民の国。みんなでワッショイやろうという雰囲気が好きになった」。栃木県足利市出身でブラジルに渡って国籍を変更した石井千秋さん(78)は1972年のミュンヘン五輪で、ブラジル柔道史上初のメダルとなる銅をもたらした。

ブラジル柔道界に長年貢献してきた石井千秋さん=2019年9月、サンパウロ(共同)
ブラジル柔道界に長年貢献してきた石井千秋さん=2019年9月、サンパウロ(共同)

 

 「海外で一旗揚げよう」と大学卒業後の64年、22歳のときに農業移民としてブラジルへ渡った。しかし農業に挫折し、子どもの頃からたしなんでいた柔道の修行のために約1年半、南米諸国を放浪。再びブラジルに戻り、サンパウロで柔道を教えて生計を立て始めた。

 強化を目指していたブラジル柔道界の重鎮に説得され、69年に国籍取得。71年に西ドイツ(当時)で開かれた世界選手権でブラジル初の3位入賞を果たし、翌年のミュンヘン五輪で悲願の銅メダルに輝いた。

 その後は地元選手の育成に尽くし、教え子の一人はロサンゼルス五輪で銅メダルを獲得した。現地の日本人社会からは反感を買うこともあったという。「裏切り者みたいなものですから」

 しかし「自分に刺激を受けてブラジルの柔道が目覚め、これまでに五輪で22個のメダルを取ってきた。やって良かったと思っています」ときっぱり。後悔はみじんもない。(サンパウロ共同=小西大輔)

 
 

【ブラジルの柔道】1908年に始まったブラジルへの国策集団移住で渡航した日本人移民が普及させたとされる。20年代にサンパウロに講道館系の道場ができ、全国に広がった。ブラジル柔道連盟は69年創設。選手人口は100万人以上。過去の五輪でのメダル獲得数は金4、銀3、銅15と、同国の各種競技で最も多い。ブラジルに移住した日本人柔道家前田光世(通称コンデ・コマ)が20世紀前半に伝えた格闘技術はブラジリアン柔術として発展した。(サンパウロ共同)