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当たり前と思っていた自由が、突然変調を来す。決して人ごとではない。事実を伝え、思いを訴える。表現は今、どれほど自由なのか。あるいは抑圧、封殺、監視されているのか。世界の国々をめぐりながら考える。

【伝える 訴える】第14回(ドイツ) 「歴史の目撃者として」(下)

2016.8.1 16:56

「恥」抱え駆け抜けた戦後 G・グラス、文学に政治に 

「ブリキの太鼓」の主人公オスカルとギュンター・グラスの像が置かれた公園で、グラスとの思い出を話す作家ステファン・フウィン=ポーランド・グダニスク(撮影・伊藤智昭、共同)
「ブリキの太鼓」の主人公オスカルとギュンター・グラスの像が置かれた公園で、グラスとの思い出を話す作家ステファン・フウィン=ポーランド・グダニスク(撮影・伊藤智昭、共同)

 公園のベンチで太鼓をたたく男児を、パイプを片手にした老人が見守っている。ドイツのノーベル文学賞作家ギュンター・グラスの出身地ポーランド北部グダニスク(旧ダンチヒ)。ナチズムに染まっていく第2次大戦前後の故郷を、子ども目線で批判的に描いた代表作「ブリキの太鼓」の主人公オスカルと、グラス自身が語り合っているようにも見える銅像だ。

 数分歩いたところに、ドイツ人の父、少数民族カシューブ人の母と暮らした家がある。グラスは生前、自分の銅像建立に反対したため、設置は死去半年後の2015年10月。ドイツの歴史的責任を直視し、戦後文学のシンボルとされたグラスの遅い「帰郷」となった。

 

 

 

 

 

 
 

 ▽揺らいだイメージ

 親交のあった67歳のポーランド人作家ステファン・フウィンには、苦い思い出がある。

 グラスは06年8月、78歳の時にナチス・ドイツの親衛隊(SS)に所属していた過去を自伝で初めて告白、世界に衝撃を与えた。告白の前にグラスと食事をした際、終戦間近の日々が話題になったが「グラスはSSの過去に一言も触れなかった」。ドイツ国防軍兵士として敗戦を迎え、米軍の捕虜になったという従来の説明を繰り返した。

 ユダヤ人虐殺を主導したSSと国防軍兵士とでは、闇の深さが全く違う。「(グラスの)説明はうそだった」。自伝によると、ヒトラーを信奉したグラスは1944年、17歳のころにSS装甲師団に配属されていた。

 フウィンは「偉大な作家は誰もがそうだが、グラスは興味深く、謎めいた人物だった。だが、決して天使ではなかった」と振り返る。

 過去の告白で「ナチスを支えたドイツ社会を告発する作家」というグラスのイメージは大きく揺らいだ。ノーベル平和賞を受賞したワレサ元ポーランド大統領は「これまで握手する機会がなくて良かった」。ドイツやポーランドで批判が相次ぎ、グラスの評価をめぐる激しい論争が起きた。

 グラスはグダニスク市長に宛てた手紙で「若き日の短くも重いエピソードを、恥の気持ちから胸にしまい込んでいた」と釈明した。その上で「過去から学んだ。教訓が執筆や政治活動の原動力になっている」とも。60年以上、恥を胸に秘めて駆け抜けた戦後だった。論争は、告白したグラスに多くの者が支持を表明する形で収束した。

 ▽和解への貢献

 「もう許した。重要なのは作品だ」。フウィンは深いため息をつくと、抑圧的な共産政権下のポーランドで、初めてグラスの作品に触れた時の衝撃を語り始めた。

 地下出版されたポーランド語版「ブリキの太鼓」を読んだのは20代の時。「自由の爆発だった。大いに想像力をかき立てられた」。本質をずばり指摘し、性描写も織り交ぜた小説は新鮮だった。ただ、ひとつだけ残念なことがある。「グラスは政治に関わりすぎた。後年の作品が優れなかったのはこのためだろう」

 70年12月、ポーランドの首都ワルシャワのゲットー英雄記念碑前で、西ドイツ(当時)のブラント首相がひざまずき、ナチスのユダヤ人虐殺の犠牲者に謝罪の意を表した。ソ連、東欧との和解を実現した東方外交の象徴的シーン。随行団にはグラスも加わっていた。

 グラスとブラントの盟友関係は、61年にまでさかのぼる。西ベルリン市長だったブラントは、西ドイツの戦後文学運動「グループ47」の若手作家を市庁舎に集め、自分の演説原稿を書く者はいないかと問い掛けた。ただ一人協力を申し出たのが、グラスだった。

 グダニスク市幹部のアンナ・チェカノウィッチは「政治活動家」グラスを高く評価する。「ブラントがひざまずいたのは、ポーランドとドイツの和解に向け重要な行動だった。グラスの貢献も大きかった」

ポーランド・グダニスク近郊に残る、ナチス・ドイツのシュツットホーフ強制収容所跡のガス室。グラスは2006年8月、78歳の時にナチス・ドイツの親衛隊(SS)に所属していた過去を自伝で初めて告白、世界に衝撃を与えた(撮影・伊藤智昭、共同)
ポーランド・グダニスク近郊に残る、ナチス・ドイツのシュツットホーフ強制収容所跡のガス室。グラスは2006年8月、78歳の時にナチス・ドイツの親衛隊(SS)に所属していた過去を自伝で初めて告白、世界に衝撃を与えた(撮影・伊藤智昭、共同)

  ▽「難民の代理人」

  ドイツ北部リューベックの記念館ギュンター・グラス・ハウス。36歳で館長のイェルクフィリップ・トムザは「SSの過去を生前に告白できたのは幸運だった」と話す。グラスはその後、少し重荷から解放されたかのようだった。

 晩年は「フェイスブックやツイッター、ブログとは何か。衰えを知らない好奇心で、孫たちを質問攻めにした」。新しい話題を追い、最期の時まで時代に伴走し続けた。

 難民問題への関心はとりわけ強かった。戦後、グダニスクがポーランド領となり、グラス自身も故郷を失った経験を持つ。家族は難民として逃れた西ドイツで、よそ者として冷たく扱われた。「難民問題は初期の作品から大きなテーマだった。グラスは『難民の代理人』と呼ばれたこともあった」とトムザ。

 2015年4月の死去直前には排外主義に反対し、難民の保護を訴える詩を発表している。シリア内戦の激化に伴い、ドイツへの難民の大量流入が始まったのは、死から間もない15年9月だった。

第2次大戦中の空襲による犠牲者を悼み、手をつないで「人間の鎖」をつくる人たち。シリアなどから多くの難民が流れ込むドイツで、出身や人種、宗教にかかわらず手を取り助け合う寛容さを訴えていた=ドイツ・ドレスデン(撮影・伊藤智昭、共同)
第2次大戦中の空襲による犠牲者を悼み、手をつないで「人間の鎖」をつくる人たち。シリアなどから多くの難民が流れ込むドイツで、出身や人種、宗教にかかわらず手を取り助け合う寛容さを訴えていた=ドイツ・ドレスデン(撮影・伊藤智昭、共同)

 ◎親から子へ

  雨にぬれた石畳を進むと、黒いゲートが待ち構えていた。ナチス・ドイツのシュツットホーフ強制収容所跡。グラスの故郷グダニスクからわずか30キロの場所にある。悪名高いアウシュビッツに比べると小規模だが、ガス室や焼却炉を備え多くの収容者が命を落とした。

 グダニスク北部のバルト海沿岸には、ナチスの戦艦シュレスウィヒ・ホルシュタインが最初に砲撃を始め、第2次大戦の発端となったウェステルプラッテの記念碑が寒空に向かってそびえ立つ。街中には、ナチスの親衛隊と郵便局員らが十数時間にわたる攻防戦を繰り広げた郵便局のひっそりとしたたたずまい。

 終戦から70年以上が過ぎても、いまだに残る戦争の生々しい傷痕。親子連れが訪れる姿に、記憶を継承する町づくりのすごみを実感した。

 (文 共同通信ベルリン支局 桜山崇、写真 伊藤智昭、敬称略)=2016年04月13日

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