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各テーマの専門家に原稿を依頼したり、取材してまとめたりした「識者評論」「視標」、編集委員や論説委員、専門記者らが執筆した「核心評論」を随時アップ。

個人主義に大きな試練 視標「憲法施行70年」

学習院大教授 青井未帆

 幼稚園に通う子どもが教育勅語を暗唱したり、軍歌を歌ったりするなど、学校法人「森友学園」を巡る一連の報道に、多くの国民は驚きを覚えたことだろう。

 だが、あのような価値観や世界観そのものは、日本に生まれ育つ多くの人にとって、全く理解不能というわけではないことに注意を払いたい。私たちは「あぁ、ああいう話だ」と分かる。

 なぜ分かるか。それは私たちの社会のいたるところで、同様の価値観が抱かれ続けているからに他ならない。

 例えば、次のような表現は今日でもなじみがあるのではないか。

 「われわれ日本人は古来より和の精神を大切に、発展を遂げてきた。もし人々が自己を主とし、私を主張したら、和は生じない。国家は個人を超えた主体的な存在である。国家を個人の利益保護や幸福増進の手段と考えて、自由ばかりを求めるのは誤りである」

 実は、これは昭和12年に文部省思想局が公にした「国体の本義」の一部分を現代語化したものだ。ここに引いた箇所の特徴を一言で表せば、「反個人主義」となる。

 他方、日本国憲法は徹底した個人主義の立場に立っている。全ての価値の源泉は個人にある。憲法の観点から見れば、個人の自由を守ることが、国家の存立の目的なのだ。国家が個人に道徳を説き、正しい日本人としてのあり方を強制することなどあってはならない。

 個人主義に違和感や嫌悪感を抱く側面が社会に根深く残っているが、日本国憲法は「反個人主義」が公の言説空間を席巻することを妨げてきた。

 すなわち、公教育や政治の場で「お国のために命の限りを尽くせ」とか、「国益や安全保障のために自由や権利が失われるのは当然」といった表現が勢いを持つことを、憲法がいわば防波堤のように抑えてきた。

 間欠泉のように反個人主義的な言説が放たれることはあったが、それは公的な役職を辞する原因になりこそすれ、国家によって正当な言説として「お墨付き」を与えられるものではなかった。

 しかし今日では、教育勅語について「憲法や教育基本法に反しないような形で教材として用いることまでは否定されることではない」とした閣議決定や、中学校指導要領への「銃剣道」の導入など、少しずつ、戦前のように国家が国民精神の掌握に踏み込むようになってきている。

 こうした事態が進むに当たっては、2014年の集団的自衛権行使容認の閣議決定が一つの転換点となった。政権が本来できないことを強行したため、たがが外されてしまったのだ。

 道義国家を目指して国民を教化することも、国家がやってはいけないことの一つだが、たがが外れた以上、当然のように実行されつつある。

 日本国憲法施行から70年の今、個人主義は再び大きな試練の時を迎えている。

 とはいえ、個人を第一に考える憲法の下、私たちは、個人主義と「和の精神」とを調和させる努力をしてきたのではなかったか。

 「和の精神」とは、個人が個人として、自由を必要としている他の個人への共感と連帯を意味しているはずである。

  (2017年5月2日配信)

青井未帆

名前 :青井未帆

肩書き:学習院大教授

プロフィール: あおい・みほ 1973年生まれ。千葉県出身。東京大大学院博士課程単位取得満期退学。専門は憲法。著書に「憲法と政治」「憲法を守るのは誰か」など。

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