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各テーマの専門家に原稿を依頼したり、取材してまとめたりした「識者評論」「視標」、編集委員や論説委員、専門記者らが執筆した「核心評論」を随時アップ。

主張しないと権利失う 視標「憲法施行70年」

首都大学東京教授 木村草太

 このところ、「権利は義務とともにあることを教えるべきだ」といった言説に触れる機会が増えた。

 法的には、権利があれば、それに対応した義務があるのは当然だ。例えば、お金の貸し借りをすれば、「お金を返してもらう権利」を持つ人がいて、「お金を返す義務」を負う人がいる。権利と義務は表裏一体だ。

 もっとも、冒頭の発言をする人は、こうした法理論を説きたいわけではないだろう。「憲法のせいで、権利ばかり主張して、義務を果たさない人間が増えた」、「権利を行使するなら、義務を負うのが条件だ」などと主張して、権利行使を制限しようとしているのだ。

 しかし、権利は何かの義務を履行する代わりとして与えられるものではない。それを保障すべき正しい理由があるから保障されるものだ。正当に認められた権利について、その行使を制限しようとする言説は、そもそも「権利」というコンセプトの理解を誤っている。

 さらに問題なのは、「義務」の出所が曖昧なことだ。偉そうな人々が、「若者ならあれをしろ」、「子どもは黙って言うことを聞け」、「伝統を守れ」「国を愛するならこんなことをするな」などと、好き勝手に押し付けてくる。

 先日生じた、道徳教科書の検定問題も、この流れの中にある。小学校1・2年生用の道徳学習指導要領では、郷土の文化や生活に親しみ、愛着をもつことが必要とされている。検定で、ある教科書に、郷土愛の記述不足との意見が付けられた。そこで、地元のパン屋さんに感動したという記述を、和菓子屋さんに変更してみたら、検定を合格したという。

 しかし、パン屋を愛することは郷土愛ではなく、和菓子屋さんなら郷土愛だという判断は極めて恣意(しい)的だ。なぜ、こんなことになるのかといえば、学習指導要領の郷土愛の概念があまりにも曖昧だからだろう。道徳教育に関わる人たちは、教育内容や、それを教育すべき理由を明確にすることに、無頓着すぎる。

 「内容も理由も曖昧なのに、教育を通じて人に押し付けよう」という態度は、「権利主張よりもまず義務を履行しろ」という主張にも通じている。それを守るべき根拠も内容も曖昧な規範の押し付けは、権力者にとって都合の良い規範の押し付けにしかならない。

 私は、今の日本に必要なのは、権力者の都合による恣意的な義務や道徳ではなく、憲法12条だと考える。この条文は、「この憲法が国民に保障する自由および権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」と定める。

 権利は、きちんと主張していかなければ失われてしまう。自己責任論を甘受して、生存権の主張を諦めれば、将来の国民が生存権を享受できなくなるだろう。表現の自由を規制する法律を放置すれば、さらに強い規制ができるだろう。

 生活保護の切り下げや、テロ等準備罪への国民の無関心を見ていると、「権利を行使する義務」への意識は、まだまだ弱いと感じる。

 後の世代のためにも、国民は持っている権利を行使する義務を負うはずだ。憲法施行70年という節目で、いま一度、そのことを思い出してほしい。

  (2017年5月2日配信)

木村草太

名前 :木村草太

肩書き:首都大学東京教授

プロフィール: きむら・そうた 1980年横浜市生まれ。東大卒。専門は憲法。著書に「憲法の急所」「憲法という希望」など。

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