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【歴史の小窓(1)】玉虫飾りの馬具は緊迫する東アジアを象徴 福岡・船原古墳に葬られた人物は?

2022.8.10 6:00 共同通信
船原古墳近くの穴から出土した玉虫装飾の馬具「杏葉」(左、右は復元模型)
船原古墳近くの穴から出土した玉虫装飾の馬具「杏葉」(左、右は復元模型)

 「こんな見事なものが、どうしてこんな場所にあったのだろうか」。折々の文化財ニュースに接して、発掘で出土した鏡や土器などの写真を見て驚かされることは多い。常識と思い込んでいたことが、発掘によって打ち破られたり修正を迫られたりするのは、歴史に関心があるものにはある種の快感でもある。2020年11月、福岡県古賀市の6世紀末から7世紀初めにつくられた船原(ふなばる)古墳から出土していた馬具が、玉虫の羽で飾られていたとわかったというニュースを見たときにも同様の驚きがあった。

 玉虫飾りの古代の工芸品といえば、奈良・法隆寺の玉虫厨子(たまむしのずし)が有名だが、それ以外では、奈良の正倉院宝物の中に矢や刀子、福岡県の“海の正倉院”ともいわれる世界遺産・沖ノ島で出土した帯飾りしかない。数が少ない上に、いずれも政権の中枢とかかわりの深い場所や施設で、国宝などに指定されている。それが全国的には、いや九州でも名前が知られていなかった古墳から出土したのはなぜか。いやが上にも想像の翼を広げたくなる。

 この馬具は、革帯などにつけて馬の胴体に下げる杏葉(ぎょうよう)と呼ばれる飾りで、全体はハート形をしている。大きさは縦、横それぞれ約10センチ。金銅製の透かし彫りの文様と裏地の鉄板の間に、玉虫の羽が約20枚残っていた。文様と地金の板の間に羽をおくのは、玉虫厨子と同じやり方で、復元されたものを見ると、金色に輝く文様板の隙間から緑や金色に輝く玉虫の羽がのぞき豪華さに目を奪われる。

 玉虫を使った工芸品は日本では少ないが、朝鮮半島の古代国家の一つ新羅(しらぎ)では、王陵とされる大型墳墓から、馬具を中心に20数点出土している。いずれも、最高位の人物が葬られた墓とされ、つくられたのは、船原古墳より古い5世紀から6世紀の前半なので、玉虫杏葉のルーツは新羅にあるとみていいだろう。 

 
 

 

 ではなぜこんな超高級な馬具が、九州の古墳から出土したのだろうか。謎を解く鍵は、古墳がある場所と形だろう。古賀市は博多湾と関門海峡の間にあり、日本列島と朝鮮半島を結ぶ航路上にあたる。当時の朝鮮半島をみると、高句麗、百済、新羅の3国が覇権を争っていて、戦乱が続いていた。強大な高句麗をけん制しようと百済や新羅は中国の隋王朝と接触したり、ヤマトの政権と関係を深めようとしたりしていた。ヤマトの政権も朝鮮半島南部にあった小国家をめぐって新羅と対立、新羅に派兵したり、交渉を有利に運ぼうと隋に使節を派遣したりした。新羅はこのため、さまざまな貢物をヤマトの政権に贈ったという話もある。こうした緊迫した国際情勢の中にあって、船原古墳一帯は朝鮮半島との間の外交、交易をめぐる上で極めて重要な場所になっていた。

 次に、古墳の形をみると古賀市内唯一の前方後円墳(全長約45メートル)になる。つまり何世紀もの間、この地域の有力者の墓としてつくられていたのは、大きくても直径20メートルほどの円墳だったのに、いきなり伝統を破る、それも円墳よりも格が上と考えられる形の古墳がつくられたのだ。この劇的な変化がなぜ起こったか。考えられるのは、在地の首長が地の利を生かして力を蓄え大きな権力を手に入れたか、あるいは、他の地域から乗り込んできた相当な力を持った人物だったかだろう。

 古墳の主を探る重要な手がかりは、なんといっても主のそばに添えられた副葬品なのだが、残念なことに後円部にあった横穴式石室は古くに盗掘されていて、ほとんど残っていなかった。では玉虫飾りの杏葉はどこから出土したかというと、2013年に農地整備のために周囲を発掘した際に、墳丘のそばから穴が発見され、その中に他の馬具や武器と一緒に納められていたのだ。馬具は少なくとも10頭分という、一つの古墳では例のない多さだった。

 玉虫杏葉と同じ穴からは、馬の頭部を覆う鉄のかぶとや、蛇行状鉄器と呼ばれるクネクネと曲がった形をした旗飾り、馬の胴にかぶせる泥よけなど、朝鮮半島に多い馬具も出土した。それぞれ国内で出土したのは数点しかなく、セットで出土した古墳は他にない。これだけのまとまった種類と数を見ると、馬具制作の先進地、朝鮮半島でつくられて運ばれてきたと考えるのが素直だろう。

 こうしたことから研究者の間では、船原古墳に葬られた人物について、「朝鮮半島から亡命したか、ヤマトの政権に招かれた人物」という見方や、「地元から中央政権に加わり、対朝鮮半島外交における重要な役割を持った人物」、「対朝鮮半島政策のためにヤマトの政権が派遣した人物」などの見方が出ている。想像は膨らむ一方だが、いずれにしろ船原古墳は、東アジアで巻き起こった激動の時代を今に伝える貴重な証言者といえよう。(共同通信記者・黒沢恒雄)

 くろさわ・つねお 1953年生まれ。奈良支局や大阪社会部、文化部で文化財を取材、研究者にうかがった最新の研究成果や見せていただいた貴重な出土品などは今でも大切な財産です。