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傷痍軍人に生きる希望 「パラの父」遺産を継承 英国

2019.12.5 20:15 共同通信

 「もう一つのオリンピック」に発展したパラリンピック。その起源は1948年7月にさかのぼる。ロンドンの北西50キロにあるストーク・マンデビル病院で車いす患者のアーチェリー大会が開かれ、男女16人の傷痍(しょうい)軍人が参加した。
 同病院の国立脊髄損傷センター(NSIC)所長でユダヤ人医師のルートビヒ・グトマンが計画、ロンドン五輪開幕に合わせた。「いつか障害者のオリンピックを開く」。夢物語と笑われても信念は揺るがなかった。
 ナチスの迫害に遭い、家族と共にドイツを出国。異邦人だった英国で第2次大戦の負傷兵を治療し、不条理と対峙(たいじ)した。ベッドに横たわる若い兵士たちを屋外に連れ出す。スポーツを治療に取り入れ、生きる希望を与えた。「パラリンピックの父」の遺産は今も継承されている。

東京パラリンピック出場を目指し、練習する車いすアーチェリーのケン・ハーグリーブズ=3月、英ストーク・マンデビル競技場(共同)
東京パラリンピック出場を目指し、練習する車いすアーチェリーのケン・ハーグリーブズ=3月、英ストーク・マンデビル競技場(共同)

 ▽仲間の力
 病院に隣接するストーク・マンデビル競技場は「パラリンピック生誕の地」を看板に掲げる。訪れた体育館では車いすのアーチェリー愛好者が練習していた。
 ケン・ハーグリーブズ(58)は英国代表で来年の東京パラリンピック出場を目指している。2003年、イラク戦争に従軍、脊髄を損傷して退役した。体と心を病み、数年間は家に引きこもる。16年、地元のアーチェリー・クラブに誘われたことがきっかけだった。「軍で銃を扱った経験が役立った」という。
 1年後には英国のヘンリー王子が提唱して始まった「インビクタス・ゲームズ」(傷病兵らによる国際スポーツ大会=14年が第1回)に参加、同じような境遇から立ち直った選手たちと会い、気力を取り戻した。
 「アーチェリーは個人競技だけれど、チームで行動する。仲間がいることで精神的にも強くなれたんだ」。介助犬のラブラドルレトリバー「フレッド」の存在も大きい。「着替えや洗濯、買い物も手伝ってくれる。親友だよ」。車いすの横に座り、競技中も一緒だ。


 ▽水晶の夜
 グトマンの娘、エバ・ルフラー(86)は12年ロンドン・パラリンピックで選手村の村長を務めた。1980年に亡くなった父から、恐怖の体験を聞いていた。
 38年、ナチス政権下のドイツ各地でユダヤ人が襲われた「水晶の夜」。路上に散乱した商店などの窓ガラスの破片が事件名の由来になった。
 グトマンはブレスラウ(現ポーランド・ウロツワフ)でユダヤ人病院に勤務。11月9日夜、64人のユダヤ人が難を逃れるため、病院に駆け込んできた。「父は全員を受け入れてベッドに寝かせた。翌日、ゲシュタポ(秘密国家警察)が捜索に入ると、ユダヤ人に顔を引きつらせるよう、サインを送ったの。ゲシュタポに『見たまえ、あの男は発作を起こしている』。父は病人だと言って譲らなかった」。60人が連行されずに助かった。

「パラリンピックの父」ルートビヒ・グトマンの肖像画を前に、思い出を語る娘エバ・ルフラー=3月、英サフォーク州の自宅(共同)
「パラリンピックの父」ルートビヒ・グトマンの肖像画を前に、思い出を語る娘エバ・ルフラー=3月、英サフォーク州の自宅(共同)

 幼かったルフラーは後年、祖父や親族の多くが強制収容所に送られて死んだことを知った。
 英国に渡って5年後の44年2月、グトマンはNSICの初代所長に就任する。その事情をルフラーが明かした。「脊髄を損傷して3カ月で亡くなる患者もいた。英国人医師は死と隣り合わせの仕事を嫌がった。神経外科医の父は自分の専門分野だからと、喜んで引き受けた」。4カ月後にノルマンディー上陸作戦が決行される。英国政府は戦傷者を収容するセンターの開設を急いでいた。
 マーガレット・ボウマン(95)は45年から1年間、理学療法士としてグトマンに学んだ。「先生は『Poppa(お父さん)』と慕われた。患者の治療に全霊をささげたから、『His Boys(先生の子)』と呼ばれる患者たちは、ベッドにじっとしていることができなかったのよ」


 ▽哲学は今も
 ストーク・マンデビルの催しはパラリンピックとして国際的な競技会に発展し、70年代に脊髄損傷だけでなく、四肢切断、視覚障害の選手も参加するようになった。
 障害者のスポーツは競技レベルが上がる一方、戦場から帰還した負傷兵の社会復帰など、幅広い役割を今も担う。英国では「ヘルプ・フォー・ヒーローズ」、米国では「パラリンピック・ミリタリー・プログラム」などのシステムが整備され、元兵士の多様な活動をサポート、夏と冬のパラリンピックに多くの軍出身者が出場している。
 マンデビル競技場入り口にグトマンの言葉が掲示されている。「私が医者として誇れることを一つ挙げるなら、障害者のリハビリにスポーツを採用したことだ」。NSICの統括責任者スチュアート・コールウッド(54)は「グトマンの哲学を引き継ぎ、発展させることが使命」と話した。
 来年は没後40年。「生誕の地」で採火された火は日本国内で採られた火と合体して東京パラリンピックの聖火となり、希望をともす。(敬称略、文・原田寛、写真・播磨宏子)

取材後記

一つの祭典

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 グトマンにはもっと高い「理想」があったといわれる。五輪とパラリンピックを「一つの祭典」で実施することだ。
 五輪で競うレベルのパラリンピック選手はこれまでもいた。1952年ヘルシンキ五輪の馬術でポリオ障害のデンマーク女子選手が銀メダルを獲得。2016年のリオデジャネイロでアーチェリーのイラン女子選手が五輪とパラに出場、陸上男子走り幅跳びで義足のドイツ選手が五輪でも上位に相当する跳躍を披露した。
 五輪とパラリンピックが同じ競技施設を使うようになった。「共生社会」の実現を掲げるのなら、種目は限定されても、健常者と障害者が一緒の大会で競う可能性を探ってみてはどうだろう。(敬称略)

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