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第3部「平和国家、続けますか」(1)実績優先、命の代償  隠された危険情報(検証なき社会①)

2018.10.30 7:00
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 東西冷戦の崩壊と同時期に幕を開けた平成。日本が初めて臨んだ本格的な国際貢献の舞台はカンボジアだった。政権時代に約200万人を虐殺したとされる武装勢力ポル・ポト派が和平に合意し、選挙の実施を目指して国連平和維持活動(PKO)が始まった。

 「自衛隊の海外派遣は憲法違反だ」との反対論が高まる中で、自衛隊の第1陣約600人と文民警察官75人が1992(平成4)年秋、相次いで海を渡った。

1992年10月、カンボジアのタケオに到着したPKO要員の陸上自衛隊員(共同)
1992年10月、カンボジアのタケオに到着したPKO要員の陸上自衛隊員(共同)

 日本では、現地は既に安全だと考えられていた。しかし、10年以上カンボジアに関わり、ポト派幹部とも人脈を築いていた大使の今川幸雄(いまがわ・ゆきお)(85)の耳には、派遣直後から「ポト派が和平合意に反発しPKOを妨害しようとしている」と不穏な情報が入っていた。

 現地では「選挙をすればポト派は負ける」とささやかれ、各地でポト派とみられる攻撃が頻発。今川は「国内で危険論が広まると、PKO要員や邦人ボランティアの撤収論議が強まりかねない。本来隠す必要のない話も伏せた」と打ち明ける。

 ポト派の妨害工作や国連幹部の暗殺計画。死傷者を伴う情報以外は、幹部のみ閲覧可の「秘密指定」で外務省に送った。

 東京で今川とのパイプ役になったのは、外務官僚で総理府国際平和協力本部事務局長だった柳井俊二(やない・しゅんじ)(81)。「現地は危ないとメディアに騒がれたくなかった」。実情が公になることを恐れ“今川情報”の秘匿を決め、首相や外相らごく一部にしか治安情勢を知らせることはなかった。

 カンボジアでは、他国のPKO要員が犠牲になる事態も起きた。地域によっては派遣条件の停戦合意が崩れているのは明らかだったが、撤収する国はなかった。国連も日本政府も「ポト派の攻撃とは断定できない」と建前を繰り返すものの、今川は「いつ日本人に犠牲が出るか、正直怖かった」と不安を抱えていた。

 日本にとってPKOは悲願だった。イラクのクウェート侵攻を機に始まった91(平成3)年の湾岸戦争。日本は130億ドルを提供したが「人的貢献をしない」として米国を中心に批判を浴びた。

 外務省のエースで、後に駐米大使となった柳井は「カンボジアPKOは、このトラウマが逆ばねになって実現した」と振り返る。アジアの大国として国際社会で存在感を示し、国連安全保障理事会の常任理事国入りを目指したい。そうした願望が政府を突き動かしていた。

1992年10月、PKO要員の兵士(右端)と接触するポル・ポト派の兵士=カンボジアのカンポート近郊(共同)
1992年10月、PKO要員の兵士(右端)と接触するポル・ポト派の兵士=カンボジアのカンポート近郊(共同)

 だが、恐れていた事態は現実になる。93(平成5)年4月に国連ボランティアの中田厚仁(なかた・あつひと)=当時(25)=が何者かに銃撃され死亡。5月には文民警察官高田晴行(たかだ・はるゆき)=同(33)=がポト派とみられる武装勢力に射殺された。

 「日本は(隊員の安全確保よりも)実績づくりを優先したのか」。今川に改めて疑問をぶつけると、しばらく黙った後に絞り出した。「2人には気の毒でたまらない気持ち。ただ、ようやくつかんだ機会を手放すわけにはいかなかった」

 国際貢献という平成の新たな挑戦は、大きな代償とともに始まった。(敬称略、年齢・肩書は新聞掲載当時)

  ×  ×  ×

 平成に入り、日本が直面したのは国際貢献という名の新たな役割だった。「国際社会に認められたい」との一念で実績づくりが優先され、活動の内実が国民の目に触れることはなかった。海外派遣を繰り返し、米軍との一体化が進む自衛隊。軍事研究との境界が曖昧になる科学技術。戦後築いた平和国家は、きっと続いていくはず―。そんな幻想は終わりを告げた。

 カンボジアPKO 日本を含む44カ国が参加、1992(平成4)~93(同5)年に活動した。要員は2万2千人で当時はPKOとして史上最大だった。民主国家樹立を目指し国連カンボジア暫定統治機構が設立され明石康(あかし・やすし)氏が代表になった。

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