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ときを結ぶ

継承という言葉に象徴される年に、人が、ものが、記憶が連なるさまに目を凝らし、その声や物音に耳をそばだててみる。祖母の思いを継ぐ女性宮司、DNA鑑定で特定される戦没者、作家の精神を伝える遺族、網の目に広がる家系図を持つ潜伏キリシタン。明治、大正、昭和、平成、そして令和へ、悠久の「とき」を結ぶ旅に出る。

「ときを結ぶ」(24) 「ハワイ移民」

2019.10.26 14:46 共同通信

浮かぶ曽祖父の名に感動 
  ルーツ探しで子孫が続々 島の資料館、記憶伝える  

 「ワーオ! あった!」。パソコンの画面を食い入るように見つめた日系4世のアサノ・ジャン(65)が突然、歓声を上げた。表示されたのは「奥浪馬吉」の文字。日本からハワイへ移民として渡った曽祖父の名前だ。
 米ハワイ在住のアサノは4月中旬、山口県周防大島町を訪れた。日系移民の子孫による訪日ツアーで、目的は「日本ハワイ移民資料館」でのルーツ探し。曽祖父は広島県出身で、23歳で渡航したことがここで判明した。
 「ありがとう」。作業を手伝った館長の木元真琴(68)に満面の笑みを見せたアサノは「13歳まで曽祖母と4世代で住んでいたの。曽祖父には初めて出会えた気分よ」。

数多くの移民を出した沖家室島の神社を案内する日本ハワイ移民資料館館長の木元真琴。玉垣にはハワイ移民らの名前が刻まれている=山口県周防大島町
数多くの移民を出した沖家室島の神社を案内する日本ハワイ移民資料館館長の木元真琴。玉垣にはハワイ移民らの名前が刻まれている=山口県周防大島町

 ▽データベース 
 日本からハワイへの本格的な移民は、政府が募った「官約移民」に始まる。1885年から約10年で約2万9千人が渡り、そのうち約4千人が瀬戸内海に浮かぶ屋代島、沖家室島(おきかむろじま)などからなる周防大島町の出身者だ。
 このため周防大島は「移民の島」として知られる。その後も渡航者を出し、ハワイや米本土から戻った人が建てた瓦屋根の立派な2階建て住宅が今も立ち並ぶ。ここで生まれ育った木元は「小学生の頃、近所のおばあちゃんの言葉が『ブレッド食べる』と英語交じりで、家からはコーヒーの香りがした」と振り返る。
 1999年、ゆかりの地に開設された資料館は、官約移民2万9千人分の渡航年月日と年齢、出身地などの検索が可能だった。ただ、20万人とされる移民数からすると、データが圧倒的に不足し「はるばる来たのに見つからず、残念そうに帰る人が多くて」と木元。
 「なんとかせんといけん」と町に声を掛け、町が東京の外交史料館にある渡航記録を複写、2016年、さらに約10万5千人分のデータを蓄積した。開館20年の資料館は、約13万5千人分の充実したデータベースで知られるようになり、さまざまな出身地の日系人にとってルーツ探しの聖地となっている。
 「ハワイに渡ったおじいちゃん、おばあちゃんを探してみてください」。アサノを含む日系人26人がツアーで訪れたこの日も、木元はにこやかに呼び掛けた。高齢者が目立つ。駐車場からの坂道をつえを突き、手を取り合って和洋折衷の木造資料館に入っていく。
 「次は誰かいね」。木元は祖先の名前がアルファベットで書かれた紙を受け取ると、次々にデータベースを検索し、記録を探していく。先祖の名前が間違った漢字の読み方で伝わっていることもしばしばで、スタッフのサポートは欠かせない。
 ▽よりどころ
 「やるなら今しかないぞ」。ハワイに親戚を持つ当時の旧大島町長に日系人が働きかけ、資料館をつくる話が持ち上がったのは、1世と接した世代が少なくなった1990年代。調査団として町長と木元らがハワイを訪れ、「1世は根性で生きてきた」と苦労話を聞いた。「資料館は日系人の大きな心のよりどころになる」。現地での生の声に確信を得た木元らは、オープンに向け全力を尽くした。
 日系人や帰国関係者からは、家に眠っていた資料を寄付したいという申し出が相次いだ。当時使用されたトランクや弁当箱、ランプ、ミシン、教科書などが館内いっぱいに集まった。
 現在も移民の暮らしを示す生活雑貨などの貴重な資料約1万点を収蔵・展示し、移民史研究の拠点にもなっている。
 4月下旬、米国での仕事を退職したヨネオカ・ヤスシ・エドウィン(63)が資料館を訪れた。祖父が熊本県からハワイに渡ったという。ハワイ島ヒロで生まれ育ったヨネオカは、資料館に展示された地元空港の白黒写真に「子どもの頃に見たままだ」と声を弾ませた。

日本ハワイ移民資料館を訪れたヨネオカ・ヤスシ・エドウィン(左)。資料館にはハワイ州旗が飾られ、日系人たちが使った日用品などが展示されている=山口県周防大島町
日本ハワイ移民資料館を訪れたヨネオカ・ヤスシ・エドウィン(左)。資料館にはハワイ州旗が飾られ、日系人たちが使った日用品などが展示されている=山口県周防大島町

 日用品の展示室で、サトウキビ畑で使う農具を発見した。「祖父と父がこのナタを使ってサトウキビを刈っていた。私も父を手伝って運んだ」と往時を懐かしんだ。
 ▽ホレホレ節
 移民の多くが携わった砂糖産業。ハワイの炎暑の下、中国やフィリピンなどからの労働者と共に、厳しい環境で働いた。「ハワイハワイとヨー夢見てきたが流す涙もキビの中」。サトウキビを刈ったり、その枯れ葉を畑から取り除いたりする過酷な作業(ハワイ語でホレホレ)から生まれた労働歌「ホレホレ節」を口ずさみ、仕事に励んだ。
 ただ、苦労を重ねた1世の記憶、故郷への思いは時とともに薄らいでいく。資料館を訪れる日系人はシニアが多く、若い世代は日本に関心を持たない人も増えている。来館者には「祖先と子どもたちをつなぐことができるのは、私たちが最後」という声も。だからこそ、移民の歴史を大切に伝えていくのが資料館の役割だと木元は思う。「『ここならルーツが探せる』という場所にしなきゃいけん」と力を込めた。
 資料館の一室から、ホレホレ節が流れる。「横浜出るときやヨー涙ででたが今じゃ子もある孫もある」。(敬称略、文・石黒真彩、写真・堀誠)

苦しい生活の中で送金も

日本ハワイ移民資料館
日本ハワイ移民資料館

 

 

 最初のハワイ移民は「元年者」と呼ばれ、1868年に渡航した。政府募集の「官約移民」はその後で、広島、山口、熊本、福岡、新潟、神奈川の各県出身者が多数を占めた。官約移民が94年に廃止された後は、民間会社の仲介などがあり、米国が移民を禁止する1924年まで日本からハワイへと渡った。
 日本ハワイ移民資料館によると、サトウキビの植え付けから収穫まで、労働者は数人で一組となり、30分の昼休憩を挟んで、午前6時から午後4時半まで仕事を続けたという。賃金は日本の数倍だが現地の物価は高く、移民は生活が苦しい中、帰国のための貯蓄や家族への送金に努めた。

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