メニュー 閉じる メニュー
社会

社会

ときを結ぶ

継承という言葉に象徴される年に、人が、ものが、記憶が連なるさまに目を凝らし、その声や物音に耳をそばだててみる。祖母の思いを継ぐ女性宮司、DNA鑑定で特定される戦没者、作家の精神を伝える遺族、網の目に広がる家系図を持つ潜伏キリシタン。明治、大正、昭和、平成、そして令和へ、悠久の「とき」を結ぶ旅に出る。

「ときを結ぶ」(21) 「戦友会」

2019.10.26 13:37 共同通信

静かに語り合う父の記憶 
   減少一途、2世も高齢化 兵士と遺族のインパール  

 険しい山道で、十数人の日本兵がトラックを押している。重苦しい筆致の絵には「インパールへの道」の題字があった。惨禍を極めた太平洋戦争のインパール作戦。帰還兵の土谷伝吉=1996年死去、静岡市=は、当時の様子を34枚の色紙に残した。
 次女の平岩真理(67)は平成最後の今年4月、実家に保管していた色紙をインド北東部のインパール平和資料館に送ることを決めた。自分の子どもや孫世代には関心が薄い、と考えたからだ。「捨てることになるのかと心配だった。現地で飾られれば、ありがたい」
 土谷が色紙に添えていた覚書の日付は昭和末期の88年。「亡き戦友をしのびながら描いた」とあった。

父土谷伝吉の自画像を持つ平岩真理と「インパール平和資料館」に寄贈の絵を手にする長男土谷仁志=静岡市
父土谷伝吉の自画像を持つ平岩真理と「インパール平和資料館」に寄贈の絵を手にする長男土谷仁志=静岡市

 ▽白骨街道
 土谷が鉛筆で書き残した詩がある。
 「亡き戦友の遺骨を抱いて 雨いよいよ烈(はげ)し 食なく飢え迫る」
 旧日本軍がビルマ(現ミャンマー)から英領インドに攻め込み、敗走した44年のインパール作戦は、補給の軽視から3万人以上の日本兵が飢餓や病気などで死亡したとされ、退却路は「白骨街道」と呼ばれた。
 毎年7月、土谷は伊豆半島での戦友会に参加し続けていた。平岩が覚えている父の口癖は「(多くの戦友が)『一粒でもいいから白いご飯を食べたい』と言って死んだ」だった。「もっと父の話を聞いてあげていれば…」と悔やむ。土谷の死後は戦友会との関係も途絶えたという。
 インパール作戦に代表されるような過酷な戦場を経験した旧日本兵は、若い時間を共有した戦友をしのぶ。2012年に出た京大教授らによる「戦友会研究ノート」(青弓社)は、慰霊や親睦を目的として部隊単位などで集まった戦友会は最盛期に数千を数えたが、近年は減少の一途となり「いずれ消滅する」と指摘する。
 戦後74年。生還した旧日本兵は次々と他界し生存者も90歳を超える。証言や手記を受け継いだ兵士の遺族らにも高齢化が忍び寄る。
 ▽パゴダ
 外国人観光客でにぎわう京都市の世界遺産・竜安寺。昨年10月、境内にひっそりと立つ白いミャンマー式のパゴダ(仏塔)の前で、インパール作戦などビルマ戦線の戦友会の一つ「屋宇茶(やうちゃ)会」の法要が開かれた。帰還兵の元住職の協力によって約50年前に建立されたパゴダは、兵士の遺骨などを納めている。

京都・竜安寺のパゴダの前で「屋宇茶会」恒例の法要が営まれた
京都・竜安寺のパゴダの前で「屋宇茶会」恒例の法要が営まれた

 屋宇茶は、ミャンマーの言葉で「男たち」の意味。亡き戦友を追悼する目的で51年に発足し、一時は会員数百人を数え、年に1度の法要と懇親会はにぎわった。
 だが、昨年の法要は兵士の2世ら20人ほど。「生存兵の方も2年前から高齢で参加できなくなった」。世話人の一人である沢田学(75)=横浜市=は寂しそうに話した。
 沢田の父、大麓(だいろく)は帰還兵だった。戦争体験に関して口数は少なかったが、07年の死去を機に屋宇茶会の法要に沢田が60代で初参加すると、会の代表に「息子が来た。若いのが入ってきた」と喜ばれた。父の遺品の手記などを読むようになり参加を続けた。
 会の代表は亡くなる前に東京の自宅に沢田を呼び、「屋宇茶会が心残りだ。後を継いでほしい」と頼んだ。「運命的だった」と沢田。11年から会の世話人になった。
 沢田が送る会の案内状は、この7年ほどで100通から40通に減少した。法要後の懇親会。元兵士たちはかつての上下関係を残しながらも、酒を飲んでのどんちゃん騒ぎをしていたが、高齢化が進んだ2世らによる現在の会は、それぞれが父の記憶を静かに話す。参加者の一人はしみじみと言った。「ようやく、慰霊の集まりになってきたのかな」
 ▽もう十分
 沢田によると、屋宇茶会は、戦友同士の子どもたちによる「七夕のような集い」になっている。父の縁で年に1度、京都を見物し、京料理を楽しむ。「戦争をくぐり抜けたおやじに、ご苦労さんという気持ち」もある。ただ、40代の2人の娘には会を引き継いでほしい、と言えない。「もう十分じゃないか」
 同じく世話人の植田直孝(77)=兵庫県=も、父の昌次が06年に死去、会に参加し始めた。集中治療室(ICU)で最後の治療を受けていた父のもとに、戦友の一人が「家族以上の関係だ」と訪ねてきたと聞いた。
 植田の父の墓が竜安寺にある。戦友の遺骨が残ったパゴダには父の遺品を入れた。沢田も父の墓を竜安寺に移し、自分の墓とすることも考えている。「ここに眠れば、誰かが来てくれる」
 「会社の同期とも、学校の同級生とも違うつながり」と不思議がる沢田。一方の植田は「懇親会のようなもの」と笑う。戦地で倒れた友をしのぶ帰還兵の会は、父の記憶を持つ遺族の交流の場へ。やがては消える集いだとしても。(敬称略、文・高山裕康、写真・萩原達也)

 和解の象徴、遺品を展示

インド・インパール、京都・竜安寺
インド・インパール、京都・竜安寺

 インド北東部マニプール州で6月に開館したインパール平和資料館は、第2次世界大戦における敗者の視点も取り入れ、和解の象徴にしたいと、旧日本兵の手記など展示品の寄贈を呼び掛けている。
 英領インドだったインド側に残るのは連合国側の英語史料が中心で、かつてジャングルで捨てられ、戦後に回収されたヘルメットなど旧日本兵の遺物は、由来が不明なものが多い。資料館の運営委員でインド少数民族のラジェシュワル・ユンナムさん(41)は「勝者も敗者も、公平に扱う展示をしたい」と訴える。
 開館を支援してきた日本財団(東京)の元には、日本兵の遺族から遺品が集まり始めている。

 

最新記事

関連記事 一覧へ