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私たちの平成

バブル末期に始まった平成は、残り1年あまりで幕を閉じます。 効率性や生産性の高さが個人の評価を決め、「自立した強い個人」が求められた時代。 能力を至上とする価値観は私たちの生き方をどう変化させたのでしょうか。

⑧自立の裏で勝ち組負け組   「ありのままを愛したい」(障害者の現場から2)

2018.7.9 12:08
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 「障害のある子たちのダンスがすごいぞ」。テレビのチャリティー番組を見て、声を上げた夫を徳島県の福井公子(ふくい・きみこ)(68)は無視する。確かに、障害がある人たちが頑張っている姿は素晴らしい。見てみたい。でも一方で「活躍する障害者ばかりを持ち上げる世間の風潮に、そう簡単に乗せられるものか」というあまのじゃくな気持ちが働く。
 地域の小学校が障害児を受け入れ始めるようになった昭和の終わり。重い自閉症と知的障害を持つ次男の健治(けんじ)(42)に「ほかの子たちと一緒に学び、将来は働く人になってほしい」と望んだ。
 数字や文字の理解、書き方、「電話」というものの認識。視覚や聴覚と体の動きを一致させる感覚を身につけさせようと、庭には本格的なブランコを作った。「あのころは健治の昼寝すら、教える時間が奪われると思えてもどかしかった」

障害がある次男健治(右)に夕食をよそう福井公子、この日は健治の好物のすき焼きだ=徳島県阿波市
障害がある次男健治(右)に夕食をよそう福井公子、この日は健治の好物のすき焼きだ=徳島県阿波市


 だが、公子の懸命な努力にもかかわらず、健治は抵抗した。持たされた鉛筆は投げだし、時折パニックのような症状も示した。ちょうど平成に入るころで、健治は中学生になっていた。
 通常の方法では意思疎通がほとんどできない、わが子の心の声を聞いたのは、障害者の著書を読んだときのことだ。「できないことを求められる」「努力させられることがつらい」―。「人一倍の教育ママだった」という公子は次第に、ありのままの健治を受け止めようと考えを変えた。数字や文字の「教材」は押し入れにしまい、ブランコは物干し台になった。
 2005(平成17)年、障害者自立支援法(現・障害者総合支援法)が成立。障害者の家族会の会長になり、啓発や相談活動に携わるようになっていた公子は、社会の大きな変化を感じる。法律には福祉サービスの負担増と就労支援政策が盛り込まれ、障害者は経済的な自立を求められるようになった。
 親の間では、就労に関する話題が多くなった。「作業能力が低いと不利」「特技があればいい」「あそこは1年前から内定が出ているらしい」。障害者の間にも、勝ち組と負け組が生まれた。
 昭和のころ、障害者はそっとしておかれる存在だった。働く場所も作業所などの閉ざされた環境が多かった。平成に入ると、接客やサービス業にも活躍の場が広がった。
 障害者運動に長年携わってきた、和光大名誉教授の最首悟(さいしゅ・さとる)(81)は「その半面、障害者も働いてこそ価値があるとみる風潮が生まれた。それは働けない障害者を追い詰めるような力を持っていた」と指摘する。
 多くの障害者やその家族と付き合ってきた福井公子も、障害者が働くことで幸せを感じられる環境は望ましいと思う。でも、時に心はざわつく。「障害者同士の能力比べは、今も私の襟首をつかみ、ありのままの息子を愛したいという目指すべき道を、ますます見えにくくしてしまう」(敬称略)

 障害者自立支援法 2005(平成17)年成立。福祉サービス利用料が原則1割自己負担となり、障害の重い人ほど負担が高まるとして障害者が反発。12(平成24)年に支払い能力に応じた負担に変更され、法改正で「障害者総合支援法」に名称変更された。

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