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私たちの平成

バブル末期に始まった平成は、残り1年あまりで幕を閉じます。 効率性や生産性の高さが個人の評価を決め、「自立した強い個人」が求められた時代。 能力を至上とする価値観は私たちの生き方をどう変化させたのでしょうか。

⑦「この子は働けるのか」  共生の陰、優生思想も(障害者の現場から1)

2018.7.9 12:07
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東京・駒場の東大駒場リサーチキャンパスで撮影  障害者と能力社会について答える東大准教授で医師の熊谷晋一郎
東京・駒場の東大駒場リサーチキャンパスで撮影  障害者と能力社会について答える東大准教授で医師の熊谷晋一郎

 軽快な音楽が流れ、家族連れでにぎわうカフェ。2016(平成28)年、30代の夫婦が先天性の障害がある生後3カ月の息子を連れてきた。民間の養子縁組団体に託すために。ベビーカーでにこにこ笑う男児は別れの日になることを知らない。
 「妻が前向きになれない以上は育てられない。ベストではないがベターな選択」。記者の問いに、夫は答える。妻は涙を流して男児にミルクを与え「20年間、実父の介護をしてきた。そのトラウマがあり育てられない」と語った。
 「ほかの障害だったとしても同じ行動を取りましたか」。団体の代表が問うと、「治らないなら一緒です」と夫。夫婦は空になったベビーカーを押して立ち去った。残された男児を抱いた団体スタッフは「残念だけど、あのまま育てられたらこの子がかわいそう」と、小さい手を握った。
 1988(昭和63)年に始まった特別養子縁組制度の歴史は、そのまま平成という時代に重なる。父母による育児が「著しく困難または不適当であること、その他特別の事情がある」場合にのみ制度は適用される。
 養子縁組団体スタッフの女性(34)によると、子どもの障害を理由に相談に来ても、実際に養子に託す親は少ない。「育て始めてみると、母乳を飲んだり、声をかけたら笑ったり。『思っていたよりも、普通のことができる』と言って思い直す親が多い」
 ただ、障害のある子どもを持つことで、自分が今の社会的地位から転落するような恐怖を感じる親もいる。「将来この子は働けるのか」「自立できないのでは」。子の能力に対する不安が手放す動機になるケースも。
 一方の託された子どもたち。重い障害を抱えた子ほど、引受先がないという過酷な現実が待ち受ける。この子の場合は、幸いにも理解のある夫婦に引き取られていった。
 昭和の時代。障害児への偏見や能力差別は、公に存在するものだった。本人の同意を必要とせず、知的障害者らに不妊手術を施すことを認めた旧優生保護法(1948年施行)は「不良な子孫の出生防止」を目的として、96(平成8)年まで生き永らえた。
 平成に入ると、障害を個性として認める意識は広がった。「バリアフリー」「ダイバーシティー」「インクルージョン」―。障害者の権利を認め、多様性を奨励する横文字も浸透していった。

2017年12月26日、東京・駒場の東大駒場リサーチキャンパスで撮影  障害者と能力社会について答える東大准教授で医師の熊谷晋一郎
2017年12月26日、東京・駒場の東大駒場リサーチキャンパスで撮影  障害者と能力社会について答える東大准教授で医師の熊谷晋一郎


 だが、自身も脳性まひの後遺症がある障害者の東大准教授で医師の熊谷晋一郎(くまがや・しんいちろう)(41)は、楽観視できないと感じている。
 「日本には働かざる者食うべからず、という価値観が根強く残っている。社会に貢献しなければ分け前が来ないと思えば、人は分け前を得ようと、能力にことさらの価値を求めてしまう。それは優生思想にもつながる発想だ」(敬称略)

 特別養子縁組 1988(昭和63)年に始まった原則6歳未満の子どもを養父母と縁組する制度。実親が育てられない子を家庭的な環境に迎え、安定した成長につなげる。児童相談所のほか、公的に届け出た民間団体が橋渡し役をしている。

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