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子どものいま未来

いじめ、不登校、虐待や貧困。子どもたちをめぐり山積する課題に、教育や福祉の最前線で取り組む専門家・支援組織の活動を追う

(15)佐喜真美術館 米軍用地を取り戻して建設 沖縄に「沖縄戦の図」を

2018.6.21 17:28

 沖縄県宜野湾市の中央部を占有する米軍普天間飛行場。その敷地に食い込むように、小さな美術館が立っている。緑の空間、穏やかなたたずまいは、ひっきりなしに響く軍用機やヘリの爆音を静めようとしているかのようだ。

「沖縄戦の図」の前で中学生に語りかける佐喜真道夫さん
「沖縄戦の図」の前で中学生に語りかける佐喜真道夫さん

 佐喜真(さきま)美術館はもともと、たった一つの作品を展示するために計画された。その作品「沖縄戦の図」は、第1、第2展示室を抜けた最後の第3展示室の正面を、壁画のように覆い尽くす。

   ×   ×

 この日もその絵の前で館長の佐喜真道夫さんが、訪れた中学生たちに語り掛ける。「戦争の絵ですが、兵隊が一人も描かれていません」。中学生が、えっという顔になる。

 「戦争で一番ひどい目に遭う女性、子ども、お年寄りが描かれています。この絵を描いた丸木位里さんと丸木俊さんは『一番ひどい目に遭う側からでないと、戦争の本当の姿は見えないのだ』とおっしゃっていた」

 72年前の沖縄戦は、生活の場が戦場になる地上戦だったこと、それがいかに悲惨か。どれほど大量の爆弾が撃ち込まれたか。集団自決の悲劇。絵に描かれた場面を指して、淡々と語る。

 複雑な感覚

 佐喜真さんは1946年6月生まれ。両親は沖縄出身で父は軍医。生まれも育ちも熊本県なのは、44年9月、父の任地に家族が疎開し、戦後もとどまったからだ。

 東京で鍼灸師の道を選ぶ。先祖伝来の土地が米軍に接収され軍用地主になった佐喜真さんは、地代で絵の収集を始める。長崎の原爆をテーマにした上野誠、貧しい人々の姿を描いたケーテ・コルビッツらの作品だ。

 83年秋、目にした新聞記事が運命を変える。丸木夫妻が「沖縄戦の図」に取り組んでいるという。「心の底からうれしかった」

 夫妻の講演会に出かけ、俊さんが目を悪くしていることを知り、治療に当たるようになる。回復した俊さんは「『沖縄戦の図』を描いたら、沖縄の青年が来て目を開けてくれた」と喜んだ。

 実際に絵を見たのは84年春だった。「ショックを受けた」。沖縄がめちゃくちゃにやられて救いがない。よく見るとそうではなかった。「不思議なことに、温かいような励まされるような、複雑な感覚になりました」

 自分がやる

 位里さんが「沖縄戦の図」は沖縄に置きたいが、どこも手を挙げないと嘆いた。迷いに迷ったが、自分がやるしかないと決意する。用地が難関だった。戦争の傷痕、基地建設、復帰後の乱開発…土地は分断、破壊されていた。だが、先祖が残した基地内の土地だけは条件に合っていた。

佐喜真美術館
佐喜真美術館

 たった1人で返還交渉を始める。防衛施設局はらちが明かなかった。3年間、何も動かない。米軍基地の幹部に会う。「美術館をつくりたいので土地を返してほしい」「美術館ができたら良くなりますね。われわれには問題がありません」

 1年後の92年、1801平方メートルの土地が返る。美術館の開館は94年11月、式には丸木夫妻も出席、喜びを分かち合った。

 開館して間もなく、感想ノートにこう書かれていた。「私は今日の今日まで死ぬことしか考えていなかった。しかし、あの絵を見て明日から生きていけそうな気がする」。末尾には「(一七歳)」とあった。

絵と出会うための問い掛け 
 画家は何を託したのか 

 開館以来、佐喜真美術館に修学旅行や平和学習で訪れた小中高校生は、累計で60万~70万人に上るという。

佐喜真道夫さんと美術館の歩み
   佐喜真道夫さんと美術館の歩み

 開館当初、子どもたちは「沖縄戦の図」の前でも立ち止まらず、5分もたたないうちに「もう、見た」という顔をして、悠然と出て行ってしまっていた。

 佐喜真さんは困惑した。「絵は感性で受け止めるもの。説明するものではない」と考えていたからだ。しかし「沖縄戦の図」と出会うことなく去ってしまうのは、あまりにもったいない。

 そこで子どもたちに「あの風車は何を象徴しているんだろう」などと、ヒントを与えた。すると、驚くほどぐっと絵の中に入りこんでいく。絵について語る今のスタイルは、それが始まりだ。

 「子どもたちは巨大な絵を一瞬でつかむ能力を持っている。話を聞きながら、背筋がだんだん伸びて、目が澄んでいく」

 台風一過の晴れた日、潮水のかかった外まわりを水で洗っていると、30歳ぐらいの女性が声を掛けてきた。「高校時代に来ました。あのとき館長さんの話がさっぱりわからなかったけれど、今回びんびん分かりました。うれしかったです」

 佐喜真さんは「見えなかったものが十数年たって見えるようになった。自分の成長も確認したんだと思います」と話す。

 説明だけでなく問い掛けもする。「右下に骸骨の山があって、死者たちの目が入っているものもあります。その目が全部違う。画家はこの目に何を託したのか。5年でも10年でも繰り返し考えて、たくさんの答えを出してください」

記者ノート「深い自省」 

 これは多くの人に不条理な痛苦を強いた戦争への「怒り」だろうか。それとも平和への「祈り」だろうか。佐喜真美術館で「沖縄戦の図」の前に立ち考えた。そして感じたのは「鎮魂」だった。

 佐喜真さんによれば、丸木位里さんは「私は死んだら地獄へ行くだろう」と話したという。

 「あの戦争が起こったとき、自分は成人に達していた。しかし戦争を食い止めることはできなかった。その罪において、自分は地獄に行くしかない」と。自省の深さ、厳しさにたじろぐ。

「慰霊の日」の6月23日、屋上の階段に夕日が差し込む(佐喜真美術館提供)
「慰霊の日」の6月23日、屋上の階段に夕日が差し込む(佐喜真美術館提供)

一口メモ「慰霊の夕日」   

 佐喜真美術館の展示室は第1から第3へ、だんだんと広くなっていく。沖縄戦のとき、人々が逃げこんだガマ、自然壕(ごう)の構造を模したものだ。

 屋上に上がると、6段の階段があり、いったんフラットになって23段の階段が天に向かう。

 沖縄戦で日本軍の組織的な戦闘が終わった6月23日は「慰霊の日」。階段はそれを象徴する。

 上り詰めた先には正方形の窓があり、階段と窓は慰霊の日の日没の角度に合わせている。その日、夕日はこの窓から差し込み、やがて海に没するのだ。(文と写真、共同通信編集委員・佐々木央)=2017年5月取材

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