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医療新世紀

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「病、それから」河野洋平さん(元衆院議長)新たな命で経験伝えたい

2019.3.19 0:00

 青空が広がった今年1月2日、神奈川県小田原市の国道沿いに、孫を連れた元衆院議長の河野洋平さん(82)の姿があった。箱根駅伝の選手に声援を送る恒例の正月行事だ。長男で外相を務める太郎さん(56)が肝臓の一部を提供した生体肝移植から間もなく17年。河野さんが「新たな命」を受け取ったことを改めてかみしめる時でもある。

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河野洋平さん
        河野洋平さん

     ▽休養できず

 肝機能の異常を最初に言われたのは1973年、36歳の時です。3年後には自民党を飛び出し新自由クラブを旗揚げしましたから、検査数値の悪化は心配でも休むことなど考えられません。そのうち異様なだるさも感じるようになりました。

 当初「脂肪肝かも」と診断された病気は、後にC型肝炎と判明します。さまざまな治療、インターフェロンも試しましたが効果はなく、政治家としてのステップアップと病気の悪化が同時に進行していきました。

 自民、社会、新党さきがけが連立政権を組んでいた95年7月の参院選は特に忘れられません。がんが再発し入院中の妻が死亡した、との連絡を受けたのは遊説先。最期をみとることも通夜への参列もできなかったのです。

 村山富市首相(当時)は私への政権バトンタッチをにおわせましたが、政権内の異論もあり実現しなかった。あのとき首相を受けていれば間違いなく死んでいたと思います。首相を目指すには強烈なパワーが必要です。だが、妻の死による精神的ダメージは大きかった。9月の総裁選も出馬を見送りました。

 ▽美談でなく

 2度目の外相を終えた2001年には、肝硬変で顔は土気色、声もかすれ、入院せざるを得なくなります。死ぬのを待っているような状況でした。

 60代半ばの私に、最初に「私の肝臓をあげる」と言ったのは娘です。娘に腹を切らせるなんてとんでもないと断りました。同じ頃、太郎もドナー(提供者)になることを考えていた。子どもたちは母親のがんが手遅れで、何もできなかった後悔が強かったのです。「おやじにできる限りのことをしたい」という太郎の言葉に動かされ、移植を決断しました。

 02年4月16日、信州大病院での手術は16時間かかったそうです。麻酔から覚めたとき、かすれていた声が普通に出たのが何よりうれしかった。

 「終電車に間に合い、生き残った」という感覚があるので、移植について話す機会は積極的に引き受けます。ただ、太郎も繰り返し言っていますが、親子間の移植を決して「美談」にしてはならないと思う。受ける方もドナーも非常に難しい状況に置かれるからです。

 ▽ウイルス消える

 手術から3年、4年とたつにつれ、自覚症状はないものの、肝機能が少しずつ悪化してきた。移植後も肝炎ウイルスは体内に残るためです。ただ幸運なことに、最近登場したC型肝炎の新薬が効き、ウイルスは「検出せず」になりました。今飲んでいる薬は、移植患者に一生必要な免疫抑制剤だけです。

 政界を引退後、母校の早稲田大で、講義を続けています。政治や新しい事象について自分なりの解説をするため、毎年内容が変わります。そのために国会図書館にも通う。緊張感を保てますね。

 元気な姿を見せることで、同じような病に悩む人に希望を持ってもらいたい。今の議員に一言ですか? 昔、自民党の会合では議員の間で灰皿やコーラの瓶が飛ぶような激論が交わされました。最近は怒鳴る相手は官僚だけのようです。政治家同士の議論が失われつつあるのは残念です。

(聞き手・橋詰邦弘、写真・牧野俊樹)

◎河野洋平(こうの・ようへい)さん 1937年神奈川県生まれ。早大卒。67年自民党から衆院初当選。76年に離党し新自由クラブを結成したが86年復党。92~93年宮沢内閣で官房長官。93~95年自民党総裁。村山、小渕、森内閣で外相。2003年から09年の引退まで衆院議長

◎生体肝移植 健康な人の肝臓の一部を重い肝臓病患者に植える手術。提供者の負担など問題があるが、脳死での提供が少ない国内では肝移植の主流となっている。日本肝移植研究会によると1989~2017年に計8795件実施された。

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