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「病、それから」西山麗さん(ソフトボール選手)心臓病が自分を強くした 

2017.9.5 21:09
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 2008年北京五輪のソフトボール日本代表で金メダルを獲得した。西山麗さん(33)は「大動脈弁狭窄・閉鎖不全症」と診断されながら、運動が大好きな少女だった。中学2年で米国から提供された心臓弁を移植する弁置換手術を受け、昨年5月に2度目の手術を終えた。多くの人に応援され「病気で生まれてきてよかった」と思うまでになった。今も選手を続ける。
「病、それから」西山麗さん(ソフトボール選手)心臓病が自分を強くした

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 幼稚園の頃、検査入院で病気がはっきりしました。激しいスポーツは駄目。人と競争すると自分で思っている以上の力を出してしまうからと言われました。でも小学生の時は練習量を調整しながら、バスケットボールをやっていました。
 最初は両親も反対だったけれど、体を動かしたいという私の気持ちを一番に尊重してくれました。中学からはソフトボール。攻守が交代し、休むことができる。父からも勧められました。

 ▽夢が実現

 1998年1月、ソフトボールの講習会で憧れの選手だった斎藤春香さん(北京五輪で日本代表監督)と話す機会をつくってもらい、「五輪に出てみたい」と将来の夢を伝えました。手術はそれから間もなくです。

 体と心臓が成人の大きさに近づき、このタイミングなら手術できると担当の先生が判断しました。弁の提供者は14歳の女の子だと聞きました。

 怖さよりも、元気になったらソフトボールができるという思いの方が大きかった。病院にすれば、手術は普通の生活ができるようにするため。手術をしても運動は勧められず、自分で体調を管理するしかありません。

 北京五輪はオーストラリア戦で私がサヨナラ安打を放って決勝に進出しました。金メダルは本当に周りの人に恵まれました。幸せ者です。

 ▽新しい環境

 心臓弁は寿命(耐久年数)を過ぎていて、そろそろ再手術が必要と分かってはいました。ただ、豊田自動織機に移って、一度はやめた選手生活に戻ったばかりの時期。正直、戸惑いはありました。

 自分の別の心臓弁を移植する手術を希望しましたが、リスクが大きいと説明されました。手術は人工弁に変更されました。

 もう手術は必要ない代わり、血液を固まりにくくする薬を毎日服用する。一生、続きます。選手同士の接触だったり、ボールが強く当たったりして、表面的に分からなくても内出血すると危険。スポーツ選手にとって、人工弁は生体弁よりリスクがあります。

 この時ばかりは結構、追い込まれました。「なんで、自分が」という思いに初めてなりました。「選手はこれで終わりかな」。でもグラウンドに戻ると、可能性が少しでもあるなら、もう一度挑戦したいと気持ちが変化していきました。

 ▽希望になりたい

 なぜ、ソフトボールを続けるのか。ソフトが好きなことはもちろんですが、家族の存在が大きい。応援してくれる人がいるなら頑張りたい。同じような病気の人、苦労している人たちの希望になれるのなら、力になりたいと思います。

 社会人になり、日立ソフトボール部監督から「全てのことには必ず意味がある」と教わり、その通りだと思いました。こういう体で生まれてきたからこそ、他の人にはない強さが自分にあると思ってきました。

 北京五輪で途絶えたソフトボールが2020年東京五輪で復活します。健康な体でみんなと同じ条件なら、3年後を目指したと思います。私は自分の経験を伝えることで、若い選手のプラスになりたい。

(聞き手・原田寛、写真・坂本佳昭)

◎西山麗さん 1984年神奈川県生まれ。厚木商業高卒。2002年日立製作所入社。08年北京五輪ソフトボール日本代表の2番遊撃手で活躍。12年、14年の世界選手権で日本の連覇に貢献した。15年日立コーチ。16年豊田自動織機に移籍し選手復帰。

◎大動脈弁狭窄・閉鎖不全症 心臓の血液を全身に送る左心室の出口にある大動脈弁の不具合により、血液が流れにくく、心臓に逆流してしまう病気。重症だと胸の痛みや失神があり、突然死の危険も。弁置換手術が検討されることが多い。

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