メニュー 閉じる メニュー

亡き父の言葉胸に挑む 馬術障害飛越、吉沢彩選手 輝け TOKYO

2020.3.27 7:30 共同通信
2010年ごろ、父貴さん(奥)と記念撮影する馬術・障害飛越の吉沢彩選手=東京都世田谷区の馬事公苑(家族提供)
2010年ごろ、父貴さん(奥)と記念撮影する馬術・障害飛越の吉沢彩選手=東京都世田谷区の馬事公苑(家族提供)

 

 東京五輪への出場を目指す馬術・障害飛越の吉沢彩選手(29)。「何かあったら空を見ろ。自分はそこにいるから相談しろ」。馬術の手ほどきをしてくれ、8年前に亡くなった父貴さん=当時(47)=の言葉を胸に、出場枠が男女の区分なく3人という狭き門に挑んでいる。

 貴さん自身も若い頃、馬術や近代五種で五輪出場を目指したが、経済的な理由や腰の古傷のために競技を続けることを断念。それでも馬術への情熱は失わなかった。「多くの人たちに魅力を知ってほしい」と、養鶏場だった土地と建物を借り、27年前に茨城県江戸崎町(現稲敷市)で乗馬クラブ「ヨシザワ ライディングファーム」をオープンした。

 彩さんも馬と一緒に育ち、2歳の時にはクラブで飼育していた12頭全ての名前を覚え、周囲を驚かせたこともあった。5歳から馬術を始め、高校時代には国体で優勝。五輪出場には海外で研鑽を積む必要があり、貴さんらが壮行会を開いて2011年5月にオランダに送り出した。だが、その年の暮れの帰国時、貴さん本人から胆のうがんを患っていることを告げられた。

 手を尽くしたものの、がんの進行は早く、貴さんは翌12年4月に亡くなった。「オランダには戻れない。自分が教えを受けた、このクラブを守りたい」。
 

 娘の申し出を母の誠子さん(54)は「お父さんは彩が五輪を目指すのを望んでいた。私がここを守るから」と言って、はねつけた。

 彩さんはオランダでの“武者修行”を続け、毎週のように各地の競技会に出場し、腕を磨いている。誠子さんは「この8年間、本当に苦労したと思う。でも決してそれを出さなかった。ものすごく頑張ってきたと思う」と話す。

 頑張る力の源は父がつくったクラブの存在だ。「お客さまやスタッフも応援してくれる。私にとってクラブ自体が家族のようなもの」と吉沢選手。クラブ関係者が大挙して彩さんの応援に駆け付けるのは、馬術関係者では有名な話だ。香港での大会でも約40人に上るほどだ。

 「オリンピックに出る選手になれ」

 父の夢を果たし、成長した姿を見せるため、代表決定まで全力で駆け抜ける。(共同通信=鈴木拓野)

取材に応じる馬術・障害飛越の吉沢彩選手=1月10日、東京都北区
取材に応じる馬術・障害飛越の吉沢彩選手=1月10日、東京都北区

 

 馬術競技 1900年の第2回パリ大会で初実施。当初は男子の軍人のみが参加できた。現在は男女や職業の区分なく行われ、演技の正確性や美しさを競う馬場馬術と、障害物を跳び越える技術と速さを争う障害飛越、この2種目にクロスカントリーを加えた総合馬術がある。日本は32年ロサンゼルス大会の障害飛越で、愛馬ウラヌス号に乗った西竹一(にし・たけいち)=太平洋戦争中に硫黄島で戦死=が金メダルを獲得した。

 

・“ぽっぽや”メダル挑む セーリングの外薗選手 【輝け TOKYO】

・苦難の福島、パラで励ます 視覚障害柔道の半谷選手【輝け TOKYO】

・也の頑張り、俺の励み カヌー羽根田卓也選手の同級生【輝け TOKYO】

・86歳元警官、再び大会支援 戦争経験「平和の礎に」【輝け TOKYO】