(21)ドイツ、ポーランド ナチスが消した出自と過去 金髪と青い目の秘密計画   「自分は誰か」生涯問う

2022年12月01日
共同通信共同通信

 私は自分の本名を知らない。いつどこで生まれたのか、親の存在すら分からない。今、80代半ば。第2次大戦中、ナチスに連れ去られ、ドイツに来た。彼らは金髪に青い目をした外国の子どもを何万人もさらった。私もその一人。出自を消され、過去を失った。自分は一体何者なのだろう―。

 

 ▽狙われた幼子

 

 ヘルマン。彼は昔からそう呼ばれてきた。記憶は他の子どもたちと遊んだ大きな家から始まる。
 

 ある朝、友達といると見知らぬ女性が現れた。2人の子を見比べ、世話係の職員に「ヘルマンにします」と言った。女性は40代のマリア・リューデキンク。署名だけで引き取り手続きを終え、輝くような金髪のヘルマンと大きな家を後にした。

 

レーベンスボルンの子どもたちをテーマにしたパネル展示の会場で、自らの生い立ちを語るヘルマン。ナチス親衛隊の行為は戦争犯罪だと憤る。右の写真はマリアと写った幼き日の自分=ドイツ・フライブルク、2021年7月
レーベンスボルンの子どもたちをテーマにしたパネル展示の会場で、自らの生い立ちを語るヘルマン。ナチス親衛隊の行為は戦争犯罪だと憤る。右の写真はマリアと写った幼き日の自分=ドイツ・フライブルク、2021年7月

 

  戦時下の1942年秋、ドイツ東部の町コーレン・ザーリス。マリアはナチスの少女団体指導者で、家はナチス最高幹部の親衛隊長官ヒムラーが設立を指示した「レーベンスボルン(生命の泉)」協会の施設だった。
 

 ヒムラーは人種の優劣を論じ、優秀なドイツ人を増やそうとした。レーベンスボルンはそのための組織で、親衛隊員やドイツ軍人の子を宿した女性用の産院を運営した。
 

 ヒムラーは金髪に青い目の人間を理想とし、探索の目を周辺国にも向けた。41年にドイツ占領下の隣国ポーランドを視察し、金髪の子どもを多く見た。親衛隊は翌年初め、ポーランドでの作戦を指令する。金髪に青い目の子どもをドイツに送り、人格をドイツ人につくり変えるのだ。「現地の良質な血を救い出す」。それが大義名分だった。
 

 

 対象は6歳まで。親衛隊は孤児やドイツに抵抗したポーランド市民の子ども、意に従わなかった現地のドイツ系住民の子どもたちを狙った。専門の検査官が髪や瞳の色、頭の形など20以上の項目を調べ、「合格」した子どもをレーベンスボルンの施設に送り込んだ。
 

 「全てが組織的に行われた」。レーベンスボルンを研究するドイツ・ミュンスター大の教授イザベル・ハイネマン(51)は語る。親衛隊の手は北のエストニアから南のスロベニアまで東欧各国に伸びた。ハイネマンは最終的に約5万人の子どもが連れ去られたとみる。

 

 ▽過去への扉

 

 ドイツ西部の町でマリアと教師の夫との生活が始まった。一人息子を戦争で失っていたマリア。ヘルマンを大切に育て、ヘルマンも2人になついた。社会は敗戦を経て復興の道を歩んでいった。

 

 ヘルマンが12歳ごろのことだ。養父の書棚で書類の束を見つけた。自分の出生証明書があり、出生地にはポーランドの町が書かれている。だが父母の名前は空白だった。「実の両親は戦争で亡くなったのよ」。マリアが答えた。それ以上は尋ねなかったが、いつか書類を調べようと決めた。
 

 大学卒業後は技術者などとして働き、妻子を養った。82年に養父が死去し、書類を入手した。マリアは怒り、関係は途絶えたが、書類の方が大切だった。過去への唯一の手掛かりなのだから。

 

 「ロマン・ロシャトフスキ」。書類の中にポーランド人の男の子の名前を書いた紙があった。生まれた場所も誕生日も、自分の出生証明書に記されていた内容と同じだった。幼少期にポーランド語を話した記憶は一切ないが、マリアと会う前にロマンと呼ばれていたのだろうか。
 

 ▽一筋の光


 10年後、ヘルマンはポーランドの「出生地」に向かった。そこにはレーベンスボルンの子どもたちが一時滞在した児童施設があった。だが探し当てた当時の管理人は「施設生まれの子はいない」と断言した。書類の記載はうそなのか。周囲を歩く。森を抜けると小さな橋があり、右に池が見える。声を失った。幼い頃から頭に浮かんでは消えた風景そのものだった。

 

 子どもたちが親衛隊の身体検査を受けた近くのウッジ市も訪ねた。街中を路面電車が走っている。車内に座り窓の外を見る自分の姿。脳裏に残る記憶とすぐに結び付いた。

 

 別の町の施設には、かつて外を眺めた半円形の大きな出窓があった。首都ワルシャワの公文書館で見つけた古い写真には、自分がレーベンスボルンの子どもたちと写っていた。5歳ごろで、撮影地はウッジ。過去が明確な形で目の前に現れた。

 

レーベンスボルンの子どもたちと写真に納まるヘルマン(右から6人目)。ワルシャワの公文書館で見つけた。1942年ごろ、ポーランド・ウッジでの撮影という(本人提供)
レーベンスボルンの子どもたちと写真に納まるヘルマン(右から6人目)。ワルシャワの公文書館で見つけた。1942年ごろ、ポーランド・ウッジでの撮影という(本人提供)

 

 だが自分は誰なのか。その後もドイツの公文書館に照会を続けたが、その答えはついに得られなかった。親衛隊は子どもの名を変え、身元につながる情報も消していた。

 

 レーベンスボルンの子どもたちは80代になった。戦後、何人もが故郷に戻ったが、ドイツでは連れて来られたことすら知らない人も多いはずだ。

 ドイツ南部で暮らすヘルマンは書類の出生地もロマンという名も偽りだと思っている。新型コロナウイルスの流行下、多くの高齢者が命を落とした。あと5年か10年か、自分の寿命を考える。出自の情報はもう見つからないだろう。だがこれだけは確かに言える。「私はポーランドから来たんだ」と。(敬称略、文と写真・森岡隆)

 

◎取材後記「記者ノートから」

 

 自分は一体誰なのか。それを生涯考えてきたとヘルマンは話した。実の親はどんな顔をしていたのか、きょうだいはいるのか。人々が当たり前のように感じる「家族の存在」は影も形もない。ヘルマンは心の痛みを抑え込むかのように、淡々とした口調で語った。
 マリアはレーベンスボルンの幹部で医師だった親衛隊将校と面識があり「金髪で青い目のドイツ人の子どもがほしい」と伝えていた。これがヘルマンを迎えた理由だが、彼がポーランド人の子どもだったのか、ポーランド在住のドイツ系住民の子どもなのか、真相は永遠に闇の中だ。
 第2次大戦後、近隣国から子どもをドイツに連れ去った行為で罪に問われた親衛隊員はおらず、ヘルマンを仲介した将校は戦後も医師として働き続けた。(敬称略)

 

 文と写真は共同通信前ベルリン支局長。年齢は2022年12月1日現在。