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文化

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村上春樹さん特別インタビュー③

2019.6.19 6:00 共同通信
村上春樹さんが翻訳した「グレート・ギャツビー」「ロング・グッドバイ」「キャッチャー・イン・ザ・ライ」
村上春樹さんが翻訳した「グレート・ギャツビー」「ロング・グッドバイ」「キャッチャー・イン・ザ・ライ」

 

久しぶりの一人称小説 
複合的コミュニケーション  ギャツビーへのオマージュ

 

 ―「騎士団長殺し」には「免色渉(めんしきわたる)」という変わった名前の謎の資産家が登場します。「色を免れる」という名なので、多くの人が「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を考えました。

 村上 確かにそうですね。でもそれは気がつかなかったな。この免色さんはフィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」のギャツビーへのオマージュなんです。

 ―確かにギャツビーは好きなデイジーの住む家が見えるところに住んでいますし、免色も自分の娘の可能性がある少女まりえが住む家を望める小田原郊外の山の中の豪邸に暮らしている。

 村上 ギャツビーは貧乏から成り上がって、人目を惹く生活をします。それが彼の目的だから。でも免色さんは割と普通にやっています。クールに、というか。だからパーソナリティーとキャラクターは違う人です。ただ状況を借用しただけです。

 ▽大切な相互交流

 ―その免色が「私」に自分の肖像画を描いてほしいとやってきます。免色が絵を描いてもらうことは「交流」だと話す。お互いの一部を交換し合う。「私」も亡くなった妹小径(こみち)に対して、交流を思うし、まりえも同じように考えている。交流という言葉が印象的です。

 村上 限られた登場人物しかいないわけだから、彼らが互いに何かを与え合わなくては、物語は成り立ちません。実際に「私」の敷地に穴を出現させるのは免色さんです。彼がいなければこんな話はそもそも起きない。

 ―なるほど。免色が業者を呼んできて、掘ったからですね。

 村上 そういう意味では、この物語においてはコミュニケーションが、すごく大切な意味を持ってきています。以前の僕の小説には、人々の間のコミュニケーションがそれほどなかったんです。一対一の人間関係の集積でした。登場人物はかなり孤立して、その多くは名前さえ持たなかった。でも書き続けているうちにだんだん、複数の相互交流が書けるようになってきた。「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」も、複数の人たちが交流する作品です。

 ▽段階的に移行

 ―登場人物は限られていますが、交流という面からすると「騎士団長殺し」は複合的なコミュニケーションが書かれた作品ということですね。

 村上 いろいろな人物が互いに少しずつ与え合うという感覚は、けっこう大事な部分です。「ノルウェイの森」以前は、コミュニケーション自体をあまり信じていない、あるいは頼っていないという作品が中心でした。でも「ノルウェイの森」以降は、コミュニケーションがないと人は生きていけないという世界にだんだんなっていく印象があります。

 ―そして「騎士団長殺し」の大きな特徴は久しぶりの一人称で書かれていることだと思います。

 村上 最初は一人称で書き出し、段階的に三人称に移行してきました。

 ―初期作品の一人称「僕」が印象的です。でも阪神大震災を反映した連作短編集「神の子どもたちはみな踊る」では、すべて三人称となった。

 ▽不思議ですね

 村上 そして「1Q84」は完全三人称の長編です。そしてそこから、もう一回、一人称で何ができるだろうと思ったんです。

 ―一人称でできて、三人称だと難しいということがありますか。

 村上 やっぱりモノローグは一人称の方が語りやすいですよね。一人称は素直に書けるし、読者が「私」に同化しやすい。同化できたなら、作家として嬉しいです。

 ―なるほど。 

 村上 それに「グレート・ギャツビー」も一人称なんです。あと僕が好きなチャンドラーの「ロング・グッドバイ」も、さらにサリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」も一人称です。これらはみんな僕が翻訳したことがある本なんです。不思議ですね。

 

回復と許しの物語 
一番暗いところを抜けて 自由な感覚を求めている

 

 ―「騎士団長殺し」の冒頭部に「私」と妻が離婚届に署名捺印したが「結局もう一度結婚生活をやり直すことになった」とあります。

 村上 胎内めぐりのように、闇の中をぐるっと回って元通りになるのが話の骨子なので、最初にそのことを示しておきたかった。読者に対しても自分に対しても。

 ―最初に結論が書いてある長編は初めてでは。

 村上 そうですね。これまでの僕の話は、失われれば、失われたままという話が多かったかと思う。でも今回は回復する話なんだと最初から考えていました。だからその宣言のような言葉を冒頭に置くことが、僕にとって大事なことだったんです。

 ―そして、物語の最後には「私が免色のようになることはない」「なぜなら私には信じる力が具わっているからだ」と書かれています。

 ▽繋がりの信頼感

 村上 免色さんは、まりえという少女が自分の子供かどうか、それがわからない人ですね。

 ―心からわかりたいと思っていない人では。

 村上 よその世界と繫がりを持つか、持たないかということの、その狭間にいる人です。何かに自分がコミットしているのか、していないのかということが自分でもよくわからない。自分ではすべてを把握しているように思っているみたいだけれど、本当はよくわかっていない。バランスを保ちながら、狭間を静かに彷徨(さまよ)っている。

 ―そういう免色渉と「私」は違うのですね。

 村上 「私」が免色さんと一番違うのは、奥さんのことを好きなことなんです。奥さんが去っていっても気持ちが変わらない。戻ってくれば、もう一度最初からやり直そうと思う人なんです。そういう形のコミットメントを彼は求めている。

 ―何がそうさせるんでしょうか。

 村上 もちろん愛なのですが、それ以上に、人と人との繫がりの信頼感というものが大事なことになります。免色さんには、そういう感覚が欠落しているんじゃないかな。

 ▽善悪を越えたもの

 ―騎士団長を殺して、「私」が心の底の暗闇の世界に入っていく場面があります。心の闇を書いてきた村上さんですが、最も深い闇の世界かと思いました。

 村上 やはり、一番暗いところを抜けないと、回復はないと思うんです。一度出ていった人を再び受け入れるということは「許し」です。許しというのは、本当に暗いところをくぐって、そこから抜け出すことによって、初めて出てくる感情だと思う。

 ―暗闇を進んでいく「私」の深い孤独な感覚が身体性をともなって伝わってきました。

 村上 許しの感覚は、善とか、悪とか、光とか、闇とか、そういう判別を越えたものです。それを得るためには、「騎士団長」という「想念」をいったん自らの手で殺す経験が必要です。そうすることで初めて「許し」というものが得られるのではないかという気がします。

 ▽若い読者が多い

 ―「騎士団長殺し」もそうですが、村上作品は世界中に翻訳され、各国にたくさんの読者がいます。世界の読者たちが、村上作品のどんなところに惹かれて読んでいるのか。村上さん自身はどのように感じていますか。最後にお聞きしたい。

 村上 外国に行って驚くのは10代、20代の若い読者が多いことです。日本の読者より、目に見えて明らかに若いです。彼らを含め、外国の読者が求めているのは、ある種の自由さではないかと思います。

 僕の文章はいわゆる文学的な文章ではなく、プレーンな(わかりやすい)自由な文章です。言い換えれば使い勝手の良い文体です。そういう特徴は翻訳されてもたぶん変わらないのだと思います。コツさえつかめばそれを用いて、まわりの物事の意味や心情を自由に切り取ることができる。外国の読者たちは、そのユニヴァーサルに自由な感覚を求めているのではないかという気が最近はしています。あくまで直感的な意見ですが。(聞き手は文芸評論家・湯川豊氏、共同通信編集委員・小山鉄郎)=終わり