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閖上(ゆりあげ)の赤貝に会いたくて

2017.12.1 12:50 洞口依子(どうぐち・よりこ)
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今が旬の赤貝と閖上ロケの様子
今が旬の赤貝と閖上ロケの様子

 

 「う」のモノの季節到来。
 「う」のモノと聞いてわかるあなたは、きっと向田邦子ファンにちがいない。
 「う」とは、「うまい」の「う」なのだ。

 
 生前、向田邦子さんは、「うまい」店の栞(しおり)や箸袋などを集め、「う」と書いた抽斗(ひきだし)にしまっておいたという逸話がある。
 昔、何かでそれを読んだ私は、自分にも同じ収集癖があることに気づき、「う」の抽斗をこしらえようとしたものだった。
 

 しかし、ズボラな性分ゆえ、収集したそばから失せ物になるのが関の山。
 ある日、棚の奥から埃をかぶったイタリア映画サントラCD『ボッカチオ’70』を引っ張りだしたら、ファシェッタ・シールがケースに挟まっていて驚いた。


 これは、イタリアのワインボトルの首に貼られるイタリア政府公認のシール。
 どこで誰と飲んだのかは覚えていないが、よほど美味しかったのだろう。
 飲みながら大好物のミラノ風仔牛のカツレツもきっと食べたにちがいない。
 まさしく「う」のモノの栞だったのだ。
 

 冬の「う」のモノといえば、海の幸。
 ふぐの白子もいいが、私の大好物は赤貝。
 膨らみのある筋状模様の二枚貝で、旬は11月下旬から2月くらいまで。
 江戸前寿司に欠かせない寿司種のひとつでもある。
 

 食欲をそそる艶やかな朱色。
 これは貝には珍しいヘモグロビン系による血の色だそうな。
 赤い血を流す貝。
 口中に含むと、ほんのり磯の香りとしっかりした甘み。
 しとやかな歯ごたえ。
  ぷっくりした肉厚の身が私を魅了する。

 
 ヒモと呼ばれる外套幕もうまい。コリコリとした食感。
 炙ってつまみによし、巻物によし。
 居酒屋や寿司屋で見かけたら、たまらず注文する。

 
 先日も小さな居酒屋で、赤貝の刺身をいただいた。
 赤貝をつまみに、ちょいと人肌ほどの燗酒。その至福といったら、何物にも代えがたい。私にとって、赤貝は鮑以上(乾貨を除く)。
 ナンバーワンの貝なのである。
 

 巷に出回っている赤貝は、ほとんどが輸入物で、国産は1割程度だという。
 かつては、東京湾でも多く採れたそうだが、現在では三陸が名産地。
 中でも宮城県名取市閖上(ゆりあげ)の赤貝がダントツに旨いらしい。
 大きさ、色、弾力、果実を思わせる濃厚な味わい。
 そしてなんといっても香りが断然違うらしい。


 東京・築地では、閖上の赤貝は高級品。ミシュラン名店の匠をも唸らせる。
  ああ、そんな閖上の赤貝を一度でいいから食べてみたい。
 そう念じていたら、今年4月初旬、閖上へ行く機会があった。
 喜び勇んで向かったが、なんと禁漁の時期で赤貝にはありつけずじまい。


 しかしせっかくなので、名取川から閖上の海岸までとぼとぼ散歩してみた。
 私の中で蘇る遠い記憶。
 あたり一面に緑の絨毯を敷き詰めたような田んぼをすり抜け、一生懸命自転車をこぎながら、この閖上の浜までやってきたあの夏の日。
 まだ10歳にもなっていなかったと思う。
 川遊びに飽きた従兄弟の後についてやってきたのだ。

 
 堤防沿いの松並木。
 その昔、行灯を吊るした松並木は「あんどん松」と呼ばれ、地元漁師が港に戻る際の目印になっていたそうだ。
 そこへ自転車を乗り捨て、小高い土手を駆け上がると、眼下には水平線がどこまでも広がっていた。
 

 太平洋の高波。とても遊泳できる場所ではなかったが、従兄弟たちと「おーい、海ー!」と大声ではしゃいで水遊びした記憶が鮮やかに蘇る。

 
 そして、時は流れた。
 現在も、あの松並木は変わらないが、ふと後ろを振り向けば、やけに風景が変わっている。
 閖上の海岸沿い。港があった場所も、私が幼い頃に見た風景とはちがう。
 東日本大震災の後、私が知る昭和40年代の閖上の姿は消え去った。
 

 復興の工事は今も続いている。
 慰霊塔はできたが、巨大な防波堤は未完成のまま。
 果てしなく広がる太平洋の海原だけがやけに静かだ。
 

 未だに残る瓦礫。廃墟。
 工事のトラックが行き交うたびに砂埃が舞い、私は背を丸めて立ち止まる。
 緑の絨毯の田んぼも姿を変え、殺伐とした風景と静かに凪いだ海が目に焼きつく。


 今回、閖上に来たのは映画の撮影のためだ。
 ここで私が海に入っていくシーンを撮ることになっていた。
 狙っている日の出はあっという間だというので、真夜中に現場入りしてスタッフとともに入念な準備が続く。

 
 「潮の流れがものすごく速い!」
 「数歩進むと、ガクンと深くなって足元もっていかれるよ!」
 注意を呼びかける声があちこちから飛んでくる。


 閖上の浜で水遊びをした経験から、海の様子は知ってはいた。
 しかし、私にはそれ以上に想起せずにはいられぬ出来事があった。
 それは、あの3月11日。
 大津波にのまれ、帰らぬ人となった人たちのことだった。


 奇しくも、私の両親は名取市出身。
 津波にのまれ、いまだに消息不明の親族がいる。
 家族も家もすべてを失ったが、たったひとりの娘と命からがら助かった人もいる。彼らは埋められない空虚な思いと現実に苛まれながらも、生きている。

 
 撮影で閖上の海に入ることを名取の親族に打ち明けた際、私の顔をのぞき見る伯母のなんとも言えぬ表情が忘れられない。
 「なんだってそんな危険な海に入らなきゃならないの? なんでまた……」
 私だって最初は耳を疑った。閖上の海に入ることにためらいはあった。
 仕方あるまい。女優が私の生業なのだから。


 撮影は一発勝負。
 思った以上に潮が速く、波にのまれそうになった。
 それでもなんとか日の出も拝め、無事に撮影を終えることができた。
 演じている間は無我夢中だったが、後で不思議なことがひとつだけあった。
 かなり重症だった私の足の腫れが急に引いたのだ。
 これには驚いた。

 
 あの潮の流れで踏ん張りすぎたからだろうか。
 力んだ拍子に派手にでんぐり返しまでしたからだろうか。
 まさか、50歳をすぎて海中で派手にでんぐり返しするとは思っていなかったが。

 
 春の朝日に照らされながら、まだ凍える東北の海に長いこと浸かっていたけれど、不思議と寒さは感じなかった。
 むしろ、心の芯からとろとろと溶けるような温かさすら感じた。


 震災のこと。さまざまな迷いや苦しみ、不安。
 いろんなひとびとの思いが、あのどこまでも続く海の奥深くにまだあるのだ。
 私には体感していないあの恐怖は正直わからない。
 でも想像することはできる。

 
 あの閖上の海ででんぐり返って、私はいろんなことをさらに想像できた。
 楽しい記憶と一緒に、瓦礫も、苦しみも、空虚も、埋まらないもの、そして現実も、時間も、愛も、一緒にクルクル回っている万華鏡をのぞいたような。
 あの海で迎えた朝日、寄せては返す静かな海原を見つめるだけで感無量だった。

 
 こうして私の主演映画『君の笑顔に会いたくて』は完成した。(現在、東京と名古屋で上映中)
 閖上の穏やかな春の海が美しい場面としてしっかり焼きついている。
 

 そんな閖上の名産・赤貝漁も復活することができたらしい。
 やはり大変貴重な高級品だそうで、ほとんどは東京の名店へ買われていき、現地でも食べられるのはわずかだという。
 それでも旬の採れたて赤貝の刺身を一度は食べてみたい。


 なにはともあれ閖上の赤貝は、私にとっていつか食べてみたい「う」のモノ。
 貝の王妃様なのである。

洞口依子(どうぐち・よりこ)

名前 :洞口依子(どうぐち・よりこ)

プロフィール:女優。1980年、「週刊朝日」11月7日号の表紙を飾り、雑誌「GORO」で篠山紀信の「激写モデル」として芸能界デビュー。85年、映画「ドレミファ娘の血は騒ぐ」(黒沢清監督)の主役に抜擢された。この時共演した伊丹十三監督の「タンポポ」「マルサの女2」に出演。テレビドラマでは92年の「愛という名のもとに」(フジテレビ)、97年の「ふぞろいの林檎たち」(TBS)などで個性的な演技を披露し、女優としての地位を確立した。2004年に子宮頸がんを発病したが克服し、06年に復帰。07年には闘病生活を綴った「子宮会議」を発刊。女優業の傍ら、ウクレレバンド「パイティティ」でライブ活動もしている。週刊文春「シネマチャート」連載中。