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のら猫万華鏡

個性的な演技と独特の存在感でファンの支持を得ている、個性派女優・洞口依子さんのコラムです。テーマは映画、ドラマをはじめ音楽やファッションなど。映画評論も手がける洞口さんが、独自の視点で読者に語りかけます。

不良少女エリちゃん~北の国から‘89帰郷より~ 

2017.10.12 13:18
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 先日、懐かしい取材を受けた。
 体験した記憶を辿る、むかし出演したドラマのインタビュー取材。
 『北の国から‘89帰郷』を特集した講談社発行の連載DVDマガジンだった。


 正直、撮影当時のことはもうあまり覚えていない。


 私はまだ駆け出しの女優で、仕事以外でも映画や本、音楽、そして恋愛や遊び全てにおいて全身全霊を捧げていた年頃。
 いや、それほど毎日頼まれもしない徹夜までして、いろんなものをダイソン並みの吸引力で吸い取っていたんだと思う。ということくらいだろうか。


 人生に無駄なんかない、と私は思っている。
 無駄こそ我が人生。若い頃は特に。
 身のまわりにある全てを吸いつくし体に入れ込んだ。
 パソコンもインターネットも普及していない時代。
 自分で見て書いて読んで聞く。そして喋る。
 

 『気狂いピエロ』で、ベトナム戦争について身振り手振りを交えて語るマリアンヌとフェルディナンのように、私は自分が体験してきた映画や音楽、旅などのあれこれを身振り手振りで、大人たちへ向けてひとり喋り続けた。


 そんな私の話を、大人たちはとても面白がってくれた。
 おかげで記憶の刷り込み作業は日々累積され、記憶力はかなり鍛えられたような気がする。


 しかし、記憶というものは不思議なもので、私の中に永遠にあり続けたりはしないらしい。
 50歳を過ぎると、本当に記憶がうろ覚えになってくる。
 あんなに吸収して、反芻していたにもかかわらず。


 そして、加齢という通過儀礼に、一抹の不安を感じてみたり。
 ある日突然、今までの全ての記憶がなくなるんじゃないかと、奇妙な恐怖感に駆られたりするのだ。


 「すみません、あまり覚えてなくて」
 取材中、ひっきりなしに私が口にした言葉だった。
 仕方あるまい。
 1988年の撮影当時の記憶など、おぼろげになっていた。


 しかし、記憶というものは面白いもので、記憶のある一片を思い出すと、タイルがポロポロと剥がれ落ちていくように、その場面が浮かんでくる。


 今回も取材を通じて面白い記憶がポロポロ出てきて、あの頃の空気感までよみがえるものだから面白い。


 「北の国から」というドラマの存在は知ってはいた。
 しかし、なぜか見ていなかった。


 「大草原の小さな家」が大好きならば、あの北海道の大自然を舞台に少年少女の成長譚が見られるのは興味深いとは思うのだが。


 突然決まった大作ドラマ出演。
 「エリ役」は、どういう経緯で決まったのかすらよく覚えていない。


 本読み顔合わせの初日、まだ新宿区河田町にあったフジテレビへ大勢のスタッフ、出演者、事務所関係者などが集結していた。


 駆け出しの女優とはいえ、向田邦子さん、山田太一氏という素晴らしい脚本家によるドラマ出演したばかりだった私は、さらなる大御所・倉本聰氏による脚本と出会えたということに、感動した記憶がある。


 倉本脚本の素晴らしさは、読んでスッと、体に馴染んでゆくことだった。
 目で台本を3Dスキャンするような感覚。つまり、台詞覚えが早く、かつすぐに役に入れちゃう。
これは初めての驚異的体験だった。


 初日の本読み顔合わせの際、確かに倉本聰先生はおっしゃっていた。
 「僕の書いた脚本は〝て・に・を・は〟までちゃんとその役に沿って書いてあるんです。その通り読んでいただけないことには困ります。だから、ちゃんと読んでください」と。


 仰せの通り、エリの台詞の一言一句が、そのまんま私の体を介してするりと出てくる。
 いったいどうやってあの不良少女の台詞の一言一句をお書きになったのであろうか。


 「知ってる、アニキが一本持ってる。フラノの生地でこさえたズボン」などと、倉本聰先生がボソボソつぶやきながら書いているのだろうか?


 決定的だったのは、純が大切にしていた泥のついた一万円札をエリとともに探し歩く最後の場面。
 脚本でも素晴らしい場面だと思っていたものの、実際映像になって面食らった。


 町の教会前、ほどけた純の包帯を口で結わくエリの顔に、マリア像がオーバーラップする。
 純のナレーションとともに、アヴェ・マリアの歌曲が聴こえてくる。
 不良少女エリちゃんとマリア像とアヴェ・マリアと傷だらけの純。
 ひとりテレビの前で思わず涙ぐんだ当時のことも思い出した。


 新宿区河田町にフジテレビがあった時代も懐かしい。
 河田町は、東京女子医大がある場所といえばわかる人もいるだろうが、当時は河田町といえば、フジテレビだった。


 電車の最寄り駅は、都営新宿線の曙橋。
 高低差のあるすり鉢状の土地。趣があり、風情のある坂道や階段が懐かしい。
 そして近くにはあの三島由紀夫が自決した市ケ谷の駐屯地があり、80年代当時、河田町フジテレビ玄関前には、アイドルや漫才芸人を出待ちするファンが鈴なりだった。


 ドラマを通じて一生のトモダチになったスタッフもいる。
 記録の石塚多恵子さん。一緒にあちこち旅をしたり、お酒を飲んだり、大先輩の女性スタッフにもかかわらず、とても親しくさせてもらっている。彼女ともよく河田町界隈で飲み歩いた。


 『北の国から‘89帰郷』のリハーサルは確か河田町だった。
 リハーサルが早く終われば飲みにゆける。
 しかし、そうは問屋が卸さない。


 リハーサルで私を待ち受けていたのは、噂通りの杉田監督の粘り強い演出だった。これには、子役時代から慣れている吉岡君も苦戦している様子だった。
 その様子はまるで、将棋かチェスを打っているような感じにも似ていた。


 当時、テレビドラマ収録はリハーサル時間をきちんと設けていたものだった。
 短い期間で収録するため、セットやロケなど美術や技術スタッフなどにカメラの動きや役者の動きをあらかじめ理解してもらうためらしい。
 

 そう言えば、北の国からの美術は秀逸だった。特に美術デザイナーの根本研二さん。富良野や東京編のロケセットのデザインは根本氏によるものだった。
 エリちゃんが純を呼び出す喫茶店の中はセット。テレビゲーム台のテーブルが懐かしい。
 私はフジテレビ系の他の連続ドラマでもお世話になっていたが、先日、多恵子さんを通じて鬼籍に入られたことを知った。ドラマを影で支えていた貴重なスタッフの訃報にしばし言葉を失った。


 当時の記憶を呼び覚ますのはいいが、恥ずかしいことも思い出す。
 演技をするにあたり、生まれて初めてある映画をちらっと参考にした、小っ恥ずかしいことまで思い出す。
 東京八重洲の名画座・スター座で観たベルイマン作品だった。


今回、講談社のDVD本インタビュー終了後、編集者が「当時、その若さでベルイマンを見ていたのですか?」と驚いていたが、若いから見なければならないものがたくさんあっただけのことだ、と返した。


 そう。あの頃は名画座巡りをよくしていた。
 銀座の並木座、飯田橋の佳作座。高田の馬場パール座、そして八重洲スター座。今はもうない名画座たちの記憶。


 一本のドラマ作品から、よみがえるそんな記憶のあれこれ。
 たった1週間ほどの撮影期間だったが、当時体験したことは濃い人生体験のひとつとして、私の中で楔(くさび)となって残っている。


 脚本の素晴らしさを知り、演出にしごかれ、役としてそこに存在することの意味を自ら体感する。それら全てが自然にスッと私の体に介入してきたという体験。


 そして、映画やドラマは映像に残る。
 あの町並みも、若き姿も。そして、時代の空気感すらも。


 あの頃、不良少女エリちゃんと出会って、80年代の東京の路地や土手を歩き、富良野ロケでもないのに荒川入水で凍え、ドラマを通じて一生のトモダチにも出会えた。もうそれだけでも十分な気がしてならない。


 『北の国から‘89帰郷』の不良少女エリちゃんを通じて得たものは、その後の私の人生にとって、何にも代え難いものだったのだ。

不良少女エリちゃんの頃
不良少女エリちゃんの頃

 

洞口依子(どうぐち・よりこ)

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