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七月の濡れたサンダル 1997年香港返還

2014.11.18 11:55
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 のどかな長洲島滞在もあっという間。


 お世話になったよしこさんと別れ際ついおしゃべりに夢中になっていたら、香港に戻るフェリーに乗り遅れそうになった。


 「どうしよう! 荷物もあるので走ったところで間に合わないです!」


 半ばあきらめかけていると、
「大丈夫です! わたし船を止めます! ついてきてください!」


 よしこさんがいつもの小走りを倍速にした早さで走り出した。
 必死についてゆくも、我々はあきらめ気分でいた。


 船着き場に辿り着くと、なんと船はまだ出ていなかった。
 よしこさんは本当に船をとめていたのだ。


 「ね。止めたでしょう? またいらしてくださいね〜!」
 本当に不思議なよしこさんだった。


 長洲島からフェリーで香港島に戻ると、我々は九龍半島のビクトリア湾を臨むリージェントホテルにチェックインした。


 夕飯までまだ時間があったので、買い物組はショッピングへ。
 私とオンナトモダチと男性ディレクターは散歩に出掛けた。

 私は見慣れた香港の路地を歩きながら思った。
 梳士巴利道 (ソールズベリーロード)という路。これは昔の英国首相の名前
からとったそうだ。


 九龍半島のスターフェリー乗り場からビクトリア湾沿いに延びる長い路だ。


 ふらふら歩いてペニンシュラホテルまで出ると、目抜き通りの彌敦道(ネイザンロード)に交差する。にょきにょき横に這い出している看板の群れ。最初ここを訪れたときの感動が、ここに来ればいつでも蘇る。


 いつも立ち寄る涼茶屋。仲間と食べた粥屋。雲呑麺。


 私のお気に入りは茶餐應(チャーチャーティン)という香港式喫茶食堂。そこで食べる、なんともたよりない味のマカロニスープと炒り卵サンドや叉焼サンド。トーストに練乳をたっぷり塗りたくっただけのパン。鶏の足やスペアリブをのせて炊き込んだ土鍋飯などもある。


 いわゆるB級グルメというジャンルになるのだろう。


 レモンスライスが幾重にも入った甘くて冷たいアイスティ。ミルクと砂糖たっぷりのミルクティ。英国でも紅茶といえば、ミルクティ、香港のそれはどうも練乳を使っているようだが、香港には酪農がないからだろう。しかも暑い。まさに土地が生んだ香港式の飲み物だ。


 他にも茶餐應のメニューには驚きの香港式不思議メニューがたくさんあって楽しい。ただし全部が美味しいとはかぎらない。そこは英国式ゆずりで面白い。


 茶餐應という場所は、昔から香港市民の憩いの場だったそうだ。
鳥の散歩帰りの鳥籠をぶら下げたオジさんたちがお茶を飲みながら鳥談義をしていた光景を86年に訪れたときにみたことがある。


 食堂の壁際にずらりと吊るされた鳥籠をみたときは、ちょっと躊躇した。しかし、現在は鳥籠おじさんたちの姿も消えてしまった。古い茶餐應に行けば、いまでも店内には鳥籠をぶら下げる場所だけが残っていたりするらしいが。


 子どもの頃よく飲んだお湯で溶く麦芽飲料“ミロ”もなぜかメニューに並ぶ。ホーさんから教えてもらった風邪の時に飲む生姜入りホットコーラというのもあった。

 
 B級グルメ以外にも高級グルメも堪能した。


 福臨門(九龍半島店)の高級フカヒレ。
 

 伝統的英国料理を食べながら飲めると聞いていたが、未だに行けていない謎のバー(当時はまだ女人禁制! だった)
 マンダリンホテルの『The Chinnery 』。


 真っ白な詰め襟制服のページボーイを観察しているだけでも暇をつぶせたペニンシュラホテル『The Lobby』。


 お呼出するゲストの名前が描かれた札を掲げて、右往左往する彼ら。
 スマートな対応をするかれらの姿から、最高級ホテルならではの流儀を知った。


 アフタヌーンティで食べる薄いキュウリを挟んだキューカンバーサンドウィッチが好きだった。葉巻用の長い軸のマッチも洒落ていた。


 フレンチレストラン『ガディス』でごちそうになったキャビアとシャンパン。
 英国植民値時代とともに時代を生きてきたホテルでもあるペニンシュラ。その遥か昔、日本統治時代、ここで天ぷら屋を出店していたそうだ。
 確かに、ここは日本軍司令部が置かれたとこだと聞いた。


 香港島の南側にあるレパルスベイホテルの『ベランダ』で飲んだジャンボマティーニ。ジャンボすぎて一杯で酔えた。
 ジャンボといえば、香港仔(アバディーン)にある水上レストラン『ジャンボ』。そこは香港映画に出てくるような怪しげな水上船がたくさん浮かんでいて、渡し船にのって水上レストランに行くのが楽しかった。


 そして、趣ある古い洋食屋。
 『慕情』撮影中のウィリアム・ホールデンも来店したという、1928年創業の『Jimmy’s Kitchen』。


 ブルース・リーをはじめ香港スターが常連客の『太平館餐廳』。
 ここの巨大スフレには度肝を抜かれた。


 ウォン・カーウァイ監督作品『欲望の翼』(1990年)にも出てきた“Q”の扉が印象的な皇后飯店(クィーンズカフェ)。


 まだ古い店の頃、男性ディレクターとふたりで「ロケ地探訪」と称して訪れた時、あの“Q”のドアノブを発見してふたりして狂喜乱舞した。


 実際は、懐かしいロシア料理を出す古い食堂である。
 薄暗い店内。壁に描いてあった熱帯魚みたいな不思議な絵柄やパサパサのパンが忘れられない。記念に皇后飯店オリジナルの皿とティポットを購入して帰った。


 映画では、ファイヤーキングの翡翠色のティーカップが出てきたり、もっとスタイリッシュなイメージなはずだったのに。
 

 私はこの頃から映画のロケ地など再訪するものではないんじゃないか? と疑問を抱くようになる。


 そしてその映画に出てくる香港警察の半ズボン制服も返還になったら変わるんだろう。
 アンディ・ラウ扮する警察官が果物を口に頬張りながらモゴモゴ台詞を喋っているのが印象的だった。

 トイレに入ると必ず遭遇する、頭にカチューシャをしてチャイナカラーの作業着に功夫布靴を履いたメイドのおばさんも見かけなくなってきた。


 彼女たちは蛇口をひねって水を出してくれて、タオルを差し出してくれる。そこまでやられると、チップを渡さなきゃどうにもバツが悪い。なので、トイレに入る前には小銭の有無を確認しあったものだ。


 映画館やテレビ放送が終わると映し出されたエリザベス女王の肖像と英国国歌。女王陛下が刻印されたお金。


 英国植民地の名残漂うそれぞれを丁寧に思い出していた。


 私は残り少ない年月を数えながら、香港に何度でも抱かれていたい未練たらしい“オンナ”だった。
 ふと、彌敦道(ネイザンロード)をふらふらしている男性ディレクターが、手招きした。


 「こっちこっち」
 私がまだ観ていない香港があるというのだ。
 何を見せてもらえるのかと思ったら、重慶大厦(チョンキンマンション)に入って行った。


 そこは九龍半島の一番の繁華街に位置するネイザンロード沿いにある世界中のバックパッカー御用達のゲストハウスが集合している複合ビルだった。
 一見すると表向きはひとつのビルだが、実は入り組んだ建築になっているようだった。


 英国式に1階のグランドフロア(G)から最上階は17階くらいまであった。
 横移動ができず、それぞれの棟に行くにはA座B座C座D座E座の5棟ごとにエレベーターがあって、停まる階が偶数奇数とあって間違えて乗ると停まらなかったりした。


 そしていつも満員で、なかなかエレベーターが来ないので有名だった。
1階に何カ所か両替所があって、奥にあったカレー屋のタンドリーチキンがウマいんだと男性ディレクターから自慢げに教えられた。


 建物内には、南アジア、中近東、アフリカなどからの出稼ぎ者や怪しい土産物、仕立て屋、CDショップなどがひしめき合い独特の雰囲気を醸し出していた。


 そこに世界中のバックパッカーが集い、独特のコミューンが形成されていた。
 どちらかというと、私がそれまで体験したことのない香港だった。


 連れのオンナトモダチは「一度でいいからここに泊まりたい!」と懇願し、その日予約していた高級ホテルリージェントの海側の部屋と男性ディレクターの予約していた重慶大厦のゲストハウスの部屋を交換したくらいだった。


 なかなか来ないエレベーターでやっとたどり着いたゲストハウスは思ったよりも小ぎれいで一泊くらいなら冒険しても悪くはなかった。


 さらに、「こっちこっち! こっちがいよいよお見せしたい香港ですよ!」。
 フー・マンチューみたいな形相で怪しく手招きする男性ディレクターの先を見上げると、屋上につづく鉄梯子だった。


 それは安易に女性がよじ登れるような鉄梯子じゃなかった。
 「いいからいいから」


 本当にこいつはフー・マンチューかもしれないと殺気を感じたが、連れのトモダチがひょひょいとよじ登りはじめてしまった。


 「危ないし見つかったらホンモノの香港マフィアがやってきて殺されるに違い
ないからやめなよ、やめなってば!」
 私は泣きわめいたが、フー・マンチューの魔の手は私を担いでひょひょいと鉄梯子にのせてしまった。
 しかも私は極度の高所恐怖症でもあった。


 泣きわめく私に、先にたどり屋上にたどり着いたトモダチがはしゃいでいる。
 「早く早く! こんな景色、観たことない!! ここまで来たなら絶対に観たほうがいい!!」。
 彼女の形相もいつのまにかフー・マンチュー一味に変貌していた。


 完璧にフー・マンチュー一味に囚われた私。
 観念して、なんとかどうにか屋上へたどり着くと、涙と汗でぐじゃぐじゃの私の表情が一変した。
 「こ、こ、これは……!!!!!」


 そこから一望する香港は観たことのない絶景だった。
 真下にはネイザンロード。右手前方にペニンシュラホテル。
 正面にビクトリア湾。後方には旺角(モンコック)のビル群。


 昼間だったからかなりリアルな風景で怖かったけれど、夜だったら目映いネ オンに彩られた香港が見渡せて、それはそれで100万香港ドルくらいの夜景かもしれない。


 「なあ! 言っただろう! ここからの風景は観たことないだろうって!」
 「ねえ!すごいじゃん!」
 フー・マンチュー一味にそそのかされたとはいえ、貴重な重慶大厦体験だった。


 思えばその男性ディレクターとは5回ほど香港を旅しているが、なぜかそれ以外の海外にも旅をしていた。


 1997年3月。
 後に、その彼と結婚することになるとは、まだ予感もない私であった。


 1997年6月30日。
 私は香港にいた。


 香港に別れを告げるため、ドラマ撮影の合間を縫って単身やってきたのだ。
 モクさんは海外へ移住。ホーさんは家族と過ごすと言っていた。


 香港返還をこの目で見届けたいという弾丸ツアーで、先乗りしていたいつもの愉快なトモダチたち数名(フー・マンチューとイカレタオンナトモダチ2名と在港邦人)と尖沙咀で合流。


 香港返還プライスで膨大に値上がりした一泊2万円もする重慶大厦(チョンキンマンション)の、普段は一人1500円程度から泊まれるゲストハウスに陣営を張り、私はお気に入りのロベール・クレジュリーの金色のサンダルの細い紐をきりりと締め直し、九龍半島にあるカンガルーパブに繰り出した。


 一杯やりながら地図を広げ、本日の式典見物ポイントを確かめると、香港返還はやはり香港島で迎えようじゃないか! ということになった。


 我々一行はこぬか雨に濡れながら、香港島往きのスターフェリー乗り場へ急いだ。


 夜の8時頃だったと思う。打ち上げ花火がはじまった。
 いつも飲み歩く香港島の蘭桂坊路にすでに香港人、海外記者や在港欧米人、観光客でいっぱいで、人が通るのもやっとだった。


 ひしめき合うバーの軒先で酒杯を片手に、雨霧の中、打ち上がる花火のにじんだ火花をぼんやり見つめていた。


 ひとだかりの中、各国の報道関係者が取材カメラを背負ってインタビューをしていた。
 その中に知った顔の俳優もいた。酒を片手に皆、香港が英国植民地だった150年の歴史に幕を下ろす瞬間に立ち会うためここにいるんだと思うと不思議な気分だった。


 バー店内のテレビからは生中継で香港返還式典の様子が見えた。
 やがて雨が少し小降りになってくると、いよいよカウントダウンが始まろうとしていた。


 チャーチル皇太子のスピーチに次いで、英国国歌とともにユニオンジャックの旗が掲揚台から下ろされた。
 その瞬間、どこかから爆竹が鳴りだし、一斉に皆、騒ぎだした。


 そして午前零時きっかりには、五星紅旗が掲揚され、香港返還式典はしめやかに執り行われた。


 暴動が起きてもおかしくないほどの人だかりの中を縫って我々はフェリー乗り場へ急いだ。
 英国植民値時代の最後の総督・バッテン総督とチャーチル皇太子、彼らを乗せた英国王室船ブリタニカ号の出航を一目観るために。


 しかし、とても身動きなどできない。仕方なく流れ行く方向へ身を預けながら、やっとフェリー乗り場に到着した頃は、ブリタニカ号は涙の雨とともに静かな夜の海へ消えていた。


 我々一行は重慶大厦(チョンキンマンション)に戻ると、1階の売店でつまみや酒を買い求め、部屋でしばらくテレビをぼんやり眺めていた。
 テレビ画面には、大陸からどやどや入ってくる中国解放軍が映し出されていた。


 「終わったね」
 「終わるものだねえ」
 「うん。いつかは終わるさ」
 「うん。終わった」
 そうつぶやくと、それから皆押し黙ったままだった。


 テレビを消した部屋には、エアコンの音がゴオン、ゴオンと唸っていた。


 あれ以来、香港へは行っていない。
 そして、私が結婚したのも1997年春だった。
 特に意味はないのだけれど。


 ずぶ濡れになった金色のサンダルをあの部屋に干し忘れたまま、


 1997年7月1日。


 私は香港をあとにした。

 

『欲望の翼』ロケ地 皇后飯店(クィーンズカフェ)の「Q」のドア 1994年頃
『欲望の翼』ロケ地 皇后飯店(クィーンズカフェ)の「Q」のドア 1994年頃