【ようこそ!偉人館へ】長崎市のシーボルト記念館 日本研究にささげた生涯


日本に西洋医学や博物学を伝えたことで知られるフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796~1866年)。江戸時代の鎖国下、23年に来日し、貿易拠点だった「出島」から北東に約3キロ離れた長崎市鳴滝に私塾を開いた。跡地に隣接する「シーボルト記念館」は、日本研究にささげたその生涯と功績を紹介する。

外国人は出島から出られなかったが、評判の高かったシーボルトは町での診察も許された。町絵師・川原慶賀の「瀉血図」(複製)や、シーボルト自身の外科器具(複製)が当時の臨床医学を物語る。

私塾「鳴滝塾」を開くと、岩手出身の高野長英、徳島の高良斎らが集い、講義を受け、手術や処方を見て学ぶ。鳴滝は西洋医学などの発信地となっていく。門弟からは日本文化を教わり、研究を手伝ってもらう。

26年の江戸参府では、片道約2カ月をかけて移動。シーボルトは日本の植物や動物を採取。富士山の高さも測量した。一行の宿泊地をマークした行程図が興味深い。

だが、シーボルト事件が起きる。調査で集めた品物に、日本地図や葵の紋の着物が含まれていた。国外持ち出しは禁止だったため、幕府による長期間の取り調べを受ける。関係した者は処罰され、自身は国外追放へ。
欧州に戻り、日本で集めた資料や知識を基に、科学的に研究し、成果を世界に発表していく。地理や宗教、風俗も網羅した研究書「日本」の他、「日本動物誌」「日本植物誌」を出版し、名声を上げる。後に開国を迫った米国海軍ペリー提督が、日本を知る上で高く評価し、読んだのはシーボルトの著書だった。
死ぬ間際、「美しい平和の国へ行く」と言い残す。いつも心に日本があった。

◎女性産科医となった娘いね
シーボルトは日本で家族ができた。出島で出会った妻たき、間に生まれた長女いねとは、シーボルト事件で今生の別れを覚悟した。
たきは形見に自身と子の姿をふたに描いた、嗅ぎたばこ入れ(「シーボルト妻子像螺鈿合子」)をオランダに戻ったシーボルトに送った。鎖国政策が終わり、たきといねがシーボルトに再会できたのは、約30年後のことだった。

その間、いねは蘭学を学び、父シーボルトが得意とした産科医師を目指す。20年以上の修業を終え、1870年に東京・築地で産科医を開業。明治天皇の側室が出産する際には、御用係を命じられるほどになった。
