【逍遥の記(4)】肉筆の圧倒的な訴求力示す  災厄を力にした川端、来信から描く鷗外の輪郭

2022年11月22日
共同通信共同通信
「没後50年 川端康成展 虹をつむぐ人」の展示会場入口=横浜市の神奈川近代文学館
「没後50年 川端康成展 虹をつむぐ人」の展示会場入口=横浜市の神奈川近代文学館

 

 2022年は川端康成没後50年であり、森鷗外没後100年でもある。関連の展覧会に足を運ぶと驚きがあった。横浜市の県立神奈川近代文学館で開催中の「没後50年 川端康成展 虹をつむぐ人」(~11月27日)は、災厄が力をそぐのでなく、逆に川端に力を与えたことを、東京・文京区立森鷗外記念館の「鷗外遺産 直筆資料が伝える心の軌跡」(~23年1月29日)は、多くの創作者との広く多面的な交流が鷗外の文学を支えていたことを示していた。

「没後50年 川端康成展 虹をつむぐ人」を開催中の神奈川近代文学館=横浜市
「没後50年 川端康成展 虹をつむぐ人」を開催中の神奈川近代文学館=横浜市

 ■大震災の惨状

 川端展で最初に目についたのは、1923年9月1日に発生した関東大震災直後の写真だ。その横のパネルで、川端がその時とった行動を解説している。川端は震災の惨状を見て歩いた。芥川龍之介や今東光と連れ立って「吉原の池の死骸を見に行った」との記述もある。

 内覧会でこの展示を見ながら唸っていると、横にいた文芸評論家の富岡幸一郎さんが教えてくれた。「川端は関東大震災で力を得た作家。『浅草紅団』を読むと分かります」

 富岡さんは著作「川端康成 魔界の文学」の第3章「モダニズムの結界」でこう書いている。「『浅草紅団』のなかで、大震災はたしかに作品の中核にある大きな出来事としてとらえられている。しかし、作家にとってこの天災は恐怖や不安よりも、直截に生命力を自覚させるものであった」。そして、川端自身の文章を引く。「大正の大地震の後の数日間ほど、生き生きしい思ひで暮したことはない」(「文科生の頃」31年)「震災の時の亡命行じみた罹災者の果しない行列ほど、私の心をそそつた人間の姿はない」(「文学的自叙伝」34年)

 あまりの正直さに茫然としてしまう。「心をそそるとは」。川端の目にはその悲惨がどう見えていたのだろう。一般的なモラルを超えたところに興趣を見いだす姿に、「魔界」を追求した作家の本質を垣間見る。

 被爆後の広島にも赴いている。49年11月に妻の秀子宛てに出した手紙は、日本ペンクラブ会長として、広島を訪問した感想を書き送っている。

 「原子爆弾の惨禍について何としても書きたい」「自分は自分一人のために生きてゐるので無く、一作家として今日生きてゐる覚悟を新にした」

 原稿用紙のマス目の外までぎっしりと手書きの文字が並ぶ。表現することへの激情があったのだろう。

「没後50年 川端康成展 虹をつむぐ人」の展示風景=横浜市の神奈川近代文学館
「没後50年 川端康成展 虹をつむぐ人」の展示風景=横浜市の神奈川近代文学館

 

 ■黒々とした文字

 48年1月に盟友の作家、横光利一の告別式で読み上げた弔辞も展示されていた。ひときわ大きな紙に、黒々とした文字が並んでいる。

 「横光君」という呼びかけで始まる。「君を敬慕し哀惜する人々は、君のなきがらを前にして、僕に長生をせよと言ふ」「僕は日本の山河を魂として君の後を生きてゆく」

 横光への弔辞なのに、自らの決意表明のような言葉だ。とても人間臭い。それは61年に三島由紀夫に送った手紙にも表れている。ノーベル文学賞を決めるスウェーデン・アカデミーに、自分の推薦文を書き送ってほしいという内容の手紙だ。文字がやや乱れているように見えるのは気のせいか。

「没後50年 川端康成展 虹をつむぐ人」の展示風景=横浜市の神奈川近代文学館
「没後50年 川端康成展 虹をつむぐ人」の展示風景=横浜市の神奈川近代文学館

 

 実際に三島は推薦文を書き、川端は68年にノーベル文学賞を受けた。実は三島はその5年前、ノーベル賞の最終候補の6人に残っていたことが後に明らかになる。早熟の天才は川端より早く、高い評価を得ていたのだ。

 三島は45歳で割腹自殺する。川端がノーベル賞を受けた2年後の70年のことだ。

 川端がサイデンステッカー宛てに送った71年3月の書簡には、三島の死についての「傷心」が去る時はなさそうと述べた上で「よい作家とともに傑(すぐ)れた批評家を失ひました」と記されている。悲痛な心情が伝わってくる。

 川端は三島が亡くなった2年後、神奈川県逗子市の仕事部屋で自殺する。師弟であり、ライバルでもあった川端と三島の関係を思うと、ノーベル賞が2人の運命を操った魔物のように思えてくる。

 ■16歳と54歳の筆跡

 文京区立森鷗外記念館の特別展「鷗外遺産」も内覧会で見た。54歳のときに新聞連載として発表した伝記「渋江抽斎」の直筆原稿や、夏目漱石らから鷗外に送られた書簡など、近年続々と見つかっている新資料多数が初めてまとまった形で公開されている。

 「渋江抽斎」の原稿は16年の新聞連載(全119回)の49回と50回。49回はほとんど直しがなく、50回には目立った加筆や修正がある。記者会見した山崎一穎・跡見学園女子大名誉教授は「推敲の跡に注目してほしい。49回の方は新聞掲載後、事実の誤りが見つかり増補訂正されています」と解説してくれた。

特別展「鷗外遺産」の展示風景=東京都・文京区立森鷗外記念館
特別展「鷗外遺産」の展示風景=東京都・文京区立森鷗外記念館

 

 東大医学部の学生だった16歳のとき、生理学の講義を受けてまとめた冊子「筋肉通論」も新資料である。端正で几帳面な文字が印象的だ。54歳の「渋江抽斎」と16歳の筆跡を見比べることができるのも楽しい。人間性の深化は文字にどう表れているか。

 鷗外宛ての書簡は、島根県津和野町の森鷗外記念館に新たに寄託された約400通のうちの一部。夏目漱石、正岡子規、与謝野晶子、黒田清輝、高村光太郎、小山内薫…。差出人の名前を見ていくと、詩や短歌、俳句、美術や演劇などジャンルを超えて交流していたことが分かる。前期と後期合わせて15人からの18通を展示する。

 永井荷風からの10年の手紙は、近く創刊する雑誌「三田文学」の準備の様子を報告している。荷風は鷗外を師と仰ぎ尊敬していた。

 「雑誌体裁は凡(すべ)て短篇、(中略)寄稿者の署名は表題の下に印刷せず、文章の終りに廻(まわ)して見るつもり」「広告は凡て奥付ばかりに致したく」「兎(と)に角(かく)一号だけは、全く理想的に見本として発行致し度(た)き考(かんがえ)に御座候(ござそうろう)」とつづっている。

 多くの人からの鷗外宛て書簡を読んでいると、彼がどんな人間に囲まれ、どんなふうに交流しながら生きていたのかが分かる。鷗外の外側から、鷗外の輪郭が浮かんでくるようだ。

 二つの展覧会に共通するのは、肉筆の訴求力だ。書いた人の心情やその時の情景にまで思いが及ぶ。想像は時空を超える。(文・写真は田村文・共同通信記者、引用文中のルビは筆者補足)

特別展「鷗外遺産」の展示風景=東京都・文京区立森鷗外記念館
特別展「鷗外遺産」の展示風景=東京都・文京区立森鷗外記念館

 

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 たむら・あや 1965年埼玉県生まれ。共同通信では文化部・文芸の担当が長く、2012年から新聞紙面用にスタートした連載「本の世界へようこそ」は550回に。めったやたらに本ばかり読んでいるようですが、アートや映画、演劇も好き。歩くのはもっと好き。この連載「逍遥の記」は、文学やアートの世界を思うまま行き来し、時に迷ったり走ったりします。読み、見て、歩き、考えます。

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