【名作文学と音楽(11)】「ああ!……あのソナタは恐ろしい作品ですね」 トルストイ『クロイツェル・ソナタ』


音楽が不吉な影を投げかける小説は、トーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』や『ブッデンブローク家の人びと』に限らない。レフ・トルストイ(1828~1910)の『クロイツェル・ソナタ』は正真正銘、その代表格である。なにしろ、表題になった天下の名曲が殺人事件を誘発したのだから。
今さら言うまでもないと思うが、小説の題名はベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第9番、通称『クロイツェル・ソナタ』から取られている。クロイツェルは、曲を献呈されたヴァイオリンの名手の名前。実はこのソナタ、元々は初演者のブリッジタワー(黒人の父と白人の母の間にポーランドで生まれた美男のヴァイオリニスト)に捧げられるはずだった。ところが演奏会後に二人は仲違いしてしまい(原因は女性絡みとの説あり)、献呈の相手が変更されたのだという。クロイツェルはこの曲が気に入らず、一度も人前で弾かなかったらしい。それまでの経緯を快く思わなかったとも考えられる。

曲の紹介はこれくらいにして、小説の方を概観しよう。嫉妬に狂って妻を殺した過去を持つ男が、列車で一緒になった「私」に事件のいきさつを語って聞かせ、併せて肉欲がいかに有害かを述べ立てる。力点はむしろ後者にある。
男はポズドヌイシェフという名の貴族で、屋敷に出入りするヴァイオリン弾きのトルハチェフスキーが妻のピアノと合奏する親密な様子に不倫関係を疑い、ついには妻を刺殺してしまう。客を招いた夕食会で二人の弾いた曲が『クロイツェル・ソナタ』だった。ちなみに、ポズドヌイシェフは裁判の結果、裏切られた夫が汚された名誉を守ったという理由で無罪になっている。昔の事とはいえ、とんだ判決があったものだ。
トルストイが『クロイツェル・ソナタ』を書いたのは60歳を過ぎてから。若い時には放蕩の日々を送ったこともあるが、年老いてからは性愛こそ諸悪の根源と思い定めた。本篇の後書きでも、キリスト教徒にとっての理想は純潔であり、夫婦であっても兄妹のように清浄に暮らすべきであるなどと主張している。二葉亭四迷は小説『平凡』の中でこれにかみつき、「何のことだ? 些(ちっ)とも分らん!(中略)伊勢屋の隠居が心學に凝り固まつたやうな、そんな暢氣な事を言つて生きちやゐられん!」と茶化した。
ポズドヌイシェフの妻は5人の子を生み、子供をつくるのをやめると容姿を磨くことに憂き身をやつした。すっかり放り出していたピアノにも再び取り組むようになる。そこへ現れたのがトルハチェフスキーだった。ポズドヌイシェフの口を借りるなら「プロの音楽家じゃなく、セミプロで半ば社交界の人間」(原卓也訳・新潮文庫、以下同)。「女たちがちょいとした二枚目ねといいそうな俗受けのする美しい顔」をしていた。ついでに言えば、楽器の腕もファッションもパリ仕込み。

二人が時々合奏をするようになると、ポズドヌイシェフは嫉妬をつのらせる。トルハチェフスキーが「少しのためらいもなしに妻を征服し、もみくちゃにし、きりきり舞いさせて、意のままに扱い、思い通りのどんな女にでも仕立ててしまうに相違ない」と確信するようにさえなった。しかし、ポズドヌイシェフはこの時点で事を荒立てるに至らず、やがて夕食会の晩がやってくる。
トルストイは『クロイツェル・ソナタ』の演奏が始まる前の情景を念入りに描写する。妻がさりげない態度でピアノの前にすわってA音を出すと、トルハチェフスキーが指で弦をはじいて調子を合わせる。楽譜が広げられる。二人はチラと目配せをし、客の方を振り返り、何やら言葉を交わしたあと、いよいよ曲に取りかかる。
「妻が最初の和音をだしました。あの男はきまじめな、厳粛な、感じの良い顔になり、自分の音色に耳を傾けながら、慎重な指で弦を押さえ、ピアノに応じました。こうして演奏がはじまったのです……」
おや? ベートーヴェンの『クロイツェル・ソナタ』を知っている読者なら、この文が曲の進み方に合っていないのにすぐ気付くはずだ。なぜなら実際には、ヴァイオリンが最初の4小節を伴奏なしで弾くのであって、ピアノは5小節目になるまで出てこないからである。不思議に思って角川文庫の中村白葉訳を参照すると、こちらは原訳とは真逆の、つまり、ベートーヴェンが書いた通りの流れになっていた。

「彼がまず最初の和音をとりました。と、彼の顔はまじめな、きびしい、気持のいい顔つきになり、そして彼は、自分の音に聞き入りながら、慎重な指づかいで絃の上をすりました。ピアノがそれに答えました。こうして、演奏ははじまったのです」
もし私がロシア語を読めたら、原文に当たってトルストイがどう書いていたのか確かめたいところだが、悲しいかなそれができないので、さらに他の訳を調べてみた。すると、光文社古典新訳文庫の望月哲男訳、筑摩世界文學体系の木村彰一訳は共に、原卓也訳と同じくピアノが先に出ることになっている。他方、岩波文庫の米川正夫訳は中村白葉訳と等しく、ヴァイオリンの和音で曲が始まる。ネット上で見た仏訳版もヴァイオリンが先だった。英訳版ではなぜか肝心な部分がカットされていた。いったいどういうことだろう。
トルストイの書き方が曲の流れと逆だったとしよう。訳者は悩むはずだ。原文を尊重するべきか、原曲に合わせるべきか、それとも訳さずにおこうか…。そんな風に考えてもみたが、あくまで想像の域を出ない。ここは是非、ロシア語のできる方に教えていただければと願う。
さて、それはさておき、ポズドヌイシェフの話の続きを聞こう。彼は「私」にこう言う。「あの最初のプレストをご存じですか? ご存じでしょう?!」「ああ!……あのソナタは恐ろしい作品ですね。それもまさにあの導入部が」(原卓也訳、以下同)
『クロイツェル・ソナタ』第1楽章のプレスト(急速に)の部分は、ゆったりとした短い序奏のあとに出てくるので、正確には「導入部」でないと思うが、それもさておいて次へ行くと、ポズドヌイシェフは追及の矛先を音楽全体に向けて持論を展開する。
「音楽が魂を高める作用をするなんて言われてますが、あれはでたらめです、嘘ですよ!」「魂を高めも低めもせず、魂を苛立たせる作用があるだけです」
ポズドヌイシェフに言わせると、音楽は、聴く人を作曲者のひたっていた心境に運んでいくが、その心境は作曲者にとってのみ意味を持つ。聴いている方には何の意味もないので、苛立たされるだけである。そして、その結果「音楽は時によると実に恐ろしい、実に不気味な作用を及ぼす」ということになる。
激した演説は止まらない。「肌もあらわなデコルテ・ドレスを着た婦人たちの間で、客間で、あんなプレストを演奏していいもんでしょうか?」。ここではおそらく、声の調子もひときわ高くなったことだろう。
小説はこのあと、妻殺害の場面へ向かって行く。途中は割愛するが、ポズドヌイシェフは妻の脇腹に短刀を突き立てる寸前の心の内を「その反応は当然、わたしが自分を導き入れた気分――ますますクレッシェンドで高まってゆき、そのまま昂揚しつづけるにちがいない気分に合致するものでした」と回想する。この感情はそのまま、激しい「プレスト」の曲想と響き合っていると解しておきたい。
小説『クロイツェル・ソナタ』は迫力ある筆致で世界的な反響を呼び、その題名だけでも不倫や殺人を連想させるようになった。夏樹静子には社会派推理小説の『クロイツェル・ソナタ』があって、不倫と殺人の両方が出てくる。作品の性質上詳述はひかえるが、ヴァイオリンを学んでいる少女が拉致・惨殺される事件が起き、少女の親の友人である音楽評論家(実は少女の父)が自ら犯人に復讐しようとするのが骨格である。放送をエアチェックした『クロイツェル・ソナタ』のカセットテープがひとつの鍵になっている。

音楽評論家がそのテープを自分の妹と一緒に聴くシーンがある。ケースには「クロイツェル・ソナタ 一九八九年五月十日 ザルツブルグ音楽祭」と書かれていた。二人の間で「あんまりうまくとれてないんだけど、バイオリンはギドン・クレーメルだったと思うね」「私、ベートーベンのバイオリンソナタではクロイツェルが一番好きなの」という会話が交わされる。この小説で大事なのはカセットテープというモノの方なので、曲自体や演奏についての記述はないが、やはりここは、同じベートーヴェンでも『スプリング・ソナタ』ではいけなかった。
林芙美子も『クロイツェル・ソナタ』と題する小説を書いた。殺人は起きないが、夫婦間の軋轢が主題で、夫は自分の友人と妻の間を疑っている。林の自作解説に「トルストイの作品の題名をかりたが、内容は、私のクロイツェル・ソナタである。市井の何氣ない、夫婦の關係を書いてみた」という一節がある。<クロイツェル・ソナタ>という言葉は林にとって、結婚生活の破綻の代名詞だった。

音楽に目を向けると、ヤナーチェク作曲の弦楽四重奏曲に『クロイツェル・ソナタ』と表題を付けたものがある。当時ある人妻と恋愛関係にあったヤナーチェクは、トルストイの禁欲主義に反発し、おそらくは皮肉を込めてこの題名を自作に冠したのだと思われる。
トルストイの『クロイツェル・ソナタ』が後世に及ぼした、あれやこれやの影響、反響。ベートーヴェンが知ったら、怒っただろうか、それとも笑っただろうか。(松本泰樹・共同通信記者)
まつもと・やすき 1955年信州生まれ。『クロイツェル・ソナタ』のさまざまな録音を聴き比べてみた。意外にも、鬼気迫るようなプレストには出合わず、ポズドヌイシェフの気持ちは共有できなかった。重たいのが苦手な私には、ハイフェッツのスマートで気っぷの良い演奏が心地よかった。