(48)ベルギー、朝鮮半島 「もう戦争はいやだ」 帰郷阻んだ南北の分断 軍国少年、欧州で医師に

90歳を超えた男性は、ベルギー・ブリュッセルの病院のベッドで微笑を浮かべていた。「夢を見ているような表情だった」。妻のリア・デブーフェイ(75)は、夫の蔡永昊(チェ・ヨンホ)が2022年8月4日、脳出血で急死した直後に撮った写真を手にこう話した。体温が残る蔡の右手に、日本語の文庫本を置いた。トルストイの「復活」。自身は読めないが、夫が前日倒れた書斎で目につき、病院に持ち込んだ。
「日本語の本を持たせたかった。いつも読んでいたから」。蔡は北朝鮮の村に帰る夢を果たせず、ベルギー女性の腕の中で人生の旅を終えた。

▽私は日本人
蔡は1930年ごろ、日本統治下の朝鮮半島で、現在は北朝鮮側にある黄海道(ファンヘド)地域の農村に生まれた。徴兵を避けるため家族が出生を届けず、正確な生年月日は知らない。6人きょうだいの第2子で長男だった。
37年、尋常小学校に入学。朝鮮の学校も選べたが、外来文化志向が強い母が民族主義者の祖父や父の反対を押し切った。「自分は日本人だと思っていた。朝8時に国旗を掲揚し、東の空に向き『皇国臣民の誓い』をした」。蔡は2021年7月、取材にこう語った。
太平洋戦争が1941年に勃発。蔡は日本の軍国少年「川本永昊(かわもと・えいこう)」に。航空兵となって米英と戦うことすら考えた。
終戦後、北緯38度線のわずかに北の村にソ連軍が進駐し、民族主義者と共産主義者の抗争も始まった。医師を目指す蔡が勉強を続けられるよう、両親はソウル近郊の親族宅に息子を預けた。
朝鮮戦争が50年に始まると「家族を放っておけない」と帰郷したが、北朝鮮の当局が家々を執拗に捜索して回っている。「捕まれば最前線の部隊に送られて犬死にだ」。月のない夜。蔡は友人と峠を越え、遠い海岸の安全な場所に逃避した。
「涙を流す母と姉妹に『戦いは長く続かない』と慰めた。私は何度も振り返った」。それが肉親と古里を見た最後だった。
▽赤道から北極まで
安全なはずの海岸で、北朝鮮部隊の機関銃が火を吹いた。海に飛び込み、小舟に救われた。嵐による難破も生き延び、韓国・仁川へたどり着く。
身元不明の北側出身者を警察はスパイ扱いした。仕事を求め各地を転々とする中、拘束され、韓国軍に入った。「部隊が北進すれば家に帰れる」との淡い期待があった。

韓国軍とともに戦う国連軍の中核、米軍の労働兵に。その後、人手不足のベルギー軍に移され、塹壕掘りなどに従事した。敵の迫撃弾で多数死傷し、自身も重傷を負う。「愛国と救国の美辞麗句に振り回され、若者がイデオロギーの戦いの犠牲になった」と蔡は憤る。
53年に休戦すると、戦争孤児の窮状が欧州で注目され、ベルギー赤十字は韓国に調査団を派遣。通訳を務めたのは開戦前に英語を、ベルギー軍で片言のフランス語を覚えた20代前半の蔡だった。
調査団長は南北分断と社会の混乱で帰郷も勉学もままならない聡明な若者に深く同情し、一つの提案をした。
「わが国に来たまえ」
53年末、蔡は軍用機でベルギーに渡る。身元を引き受けたカトリック修道院の支援を受け、同国の名門ルーバン大学医学部に翌年合格した。
ただ、無国籍では正式な医師になれない。赤道の国コンゴ(旧ザイール)から北極圏に近いスウェーデン北部まで何カ国も渡り歩き、補助医などとして働いた。
▽色ガラス
米国なら正式な医師になれる可能性があった。米国家試験に70年ごろ合格したが、移住には軍医としてベトナム戦争に加わることが条件付けられた。「もう戦争はいやだ」。言下に拒否した。
ベルギーの医師免許を取得し、旧西ドイツにあったベルギー軍病院に職を見つけ、同じ病院の看護師だったリアと74年に結婚した。18年間勤めた後、ブリュッセルで臓器移植の研究を続けた。

あなたの祖国はどこか。蔡はこの質問が苦手だ。最も長く暮らしたのはベルギーだが、父祖の地は北朝鮮。韓国は元自国兵として勲章を授与した。ただ、蔡が倒れた書斎の蔵書の大半は日本語だった。文学、医学書、中学生用の学習参考書…。
「日本は教育を与えてくれた」「どの国もいい人と悪い人がいる」。植民地支配した日本を蔡が悪くいうことはない。
戦乱が閉ざした帰郷への道は開けずじまい。冷戦崩壊や南北首脳会談に期待しては裏切られた。ブルジョアだった実家は社会主義体制で苦しんだことは想像に難くない。
「私の心は色ガラス。悲しみの色は抜けない。家族は(北朝鮮で)ひもじい思いをしている」。リアにこう訴えた。
倒れる半年前にロシアがウクライナに侵攻。何百万もの避難民が発生した。「彼は熱心にニュースを見ていた。若い頃を思い出すとは言わなかったが、痛烈に感じていたと思う」とリアは話す。
告別式は8月13日行われた。リアは朝鮮の民謡アリランを流し、蔡を見送った。(敬称略、文と写真・小熊宏尚)
◎取材後記「記者ノートから」
蔡永昊が波瀾万丈の人生を語るには時間がいくらあっても足りない。ブリュッセルに赴任した2016年以来、数回話を聞いた。帰任前の21年夏、自宅を訪ね「また来ます」と言って別れたのが最後に。新型コロナウイルス禍で高齢者に会うのを控えなければならなかったことが悔やまれる。
22年秋。自宅を訪れると妻のリアに1枚の紙を渡された。その前年、蔡に「今の若者に言いたいことは」と質問した際、うまく答えられなかったと感じ、文章にしたためてくれたのだ。B4用紙を埋める日本語の力強い手書きに圧倒された。

「如何(いか)なる難関にぶつかっても希望と勇気で立ち上がり前進するのだ」「空が崩れても生き抜く穴が何所(どこ)かある」。蔡は、自らが書いた文章の通りに生きてきた。冥福を祈りたい。(敬称略)
文と写真は共同通信前ブリュッセル支局長。年齢は2023年6月1日現在。