「電車でGO!」の原点は“我田引鉄”だった!


「運転士に憧れていた」「大学時代に通学していた区間だったので思い入れがあった」―。
第1作のゲームソフトの出荷本数が百万本を超えるミリオンセラーとなり、今も鉄道愛好家に幅広く支持されているタイトーの鉄道シミュレーションゲーム「電車でGO!」について、生みの親である齋藤晃さん(48歳)を取材して聞き出した開発秘話は“我田引水”とも言える開発者特権を行使した逸話のオンパレードだった。
「電車でGO!」はゲームセンターに1997年にお目見えすると、一般人にとって敷居の高い鉄道運転士を手軽に疑似体験できるとあって爆発的にヒットした。
当時の私は初任地の松山支局で警察を担当しており、勤務後にゲームセンターで“快走”していると携帯電話が鳴って「殺人事件が発生しました」との連絡で運転中止に追い込まれたことも。家庭用ゲーム機向けのシリーズソフトも相次いで発売され、身近なゲームとして定着した。
齋藤さんに開発の背景を尋ねると、当時のゲームセンターは格闘やドライブなどのマニア層に特化した機種が並んでいた中で「一般客がもっと簡単に遊べ、興味をもたれるテーマとして鉄道に着目しました」と説明する。
だが、ゲーム機の操作部分を設計する際のこだわりは半端ではなく「『ボタンを付ければ十分だ』という社内の声を押し返し、(加速用の)マスコンとブレーキのハンドルを付けないと臨場感が出ないと説得するのは大変でした」とか。
そこで「ご自身も運転士にあこがれていたのではないですか?」と聴くと、「もちろん。父がかつて京都市交通局施設課に勤務していたため、市電や鉄道のことは詳しく教えてもらえる環境で育ちましたし」と自らの夢が開発の原動力になっていたことを認めた。
第1作で異色なのは、通勤電車が慌ただしく往来するJRの主力路線を再現したのに交ざって、89年に電化する前のJR山陰線京都―亀岡(京都府亀岡市)間の旧線をディーゼル車両「キハ58」で走る設定が用意されていることだ。
齋藤さんが京都市出身で、京都学園大学(京都府亀岡市)を卒業しているという点と点をつなぐと「大学時代に通学していた思い入れのある区間を再現した」とも考えられる。
この点を追及すると「その通りです。他の路線が大都市圏の通勤路線ばかりだったので、渓谷の景色が楽しめ変化に富む線形の京都―亀岡間を採用しました」とあっさり“降伏”した。中立の姿勢を装うものの、変化に富んだ線形の非電化区間は全国に点在するのだから、ここに白羽の矢を立てたのは開発者特権としか言いようがない。
続いて“我田引鉄”疑惑が浮上したのは第1作から登場し、続編でもたびたび登場する東海道線の大阪―京都間。ご自身との関わりの有無を質問すると、「実家は天王山麓にあり、東海道本線は日常的に目にしている景色でした」とこれもクロ。
ただ、愛着を持つ路線を思い入れたっぷりに再現したのが功を奏し、鉄道ファンらをひき付けて業績に大きく貢献したのだから、多少の公私混同に目をつぶっても良かろう。

一方、並々ならぬこだわりが業績面では裏目に出たのが、やはり齋藤さんが親しんでいた京福電気鉄道(京都市)や、江ノ島電鉄(神奈川県)などが登場する「旅情編」だ。
プレーヤーからはブレーキのかけ方が難しいという不満も聞かれる。これに対しては「路面電車運転の醍醐味は何と言っても空気ブレーキの弁操作ですが、電気指令式ブレーキに馴染んだ人たちに不評だったのは残念でした」とため息をつく。
新規開発ソフトは2004年発売の「電車でGO!ファイナル」で打ち切られたものの、15周年を迎えた12年春には子ども用のカードゲーム機「カードで連結!電車でGO!」も登場。それらの記事を共同通信は発表前にいち早く報じたが、どちらも筆者は私である。
しかし、残念なお知らせがある。業績不振にあえぐタイトーはことし3月に「カードで連結!電車でGO!」の稼働を終えることを公表し、齋藤さんは4月末で退社してしまった。
齋藤さんが“我田引鉄”と呼ぶべきこだわりと執念を抱いて開発したからこそ「電車でGO!」の人気はロングランとなった。私も一番好きなゲームを問われると、迷うことなくこう即答する。「『電車でGO!』ですよ!」(2013/10/11)
☆大塚 圭一郎(おおつか・けいいちろう)共同通信社ニューヨーク支局記者。1973年4月生まれ。97年4月に共同通信社に入社し、編集局経済部などを経て13年9月から現職。優れた鉄道旅行を表彰する「鉄旅オブザイヤー」の審査委員も務める。