日本の開催資格に疑問 問われる公正性、モラル 視標「東京五輪を問い直す」 中京大教授 來田享子

東京五輪・パラリンピックを巡る一連の事件で大会組織委員会元理事や元次長、企業が起訴された。巨額の公的資金が投じられた大会の収入・支出の両面で、汚職・不正があったことになる。
戦後、日本はほぼ途切れなく五輪の招致、開催を続けてきた。無類の五輪好きとも五輪依存とも評されてきた国で、市民の五輪離れを引き起こし、国際社会からの信頼を失わせ、まっとうに協力した他の企業や関係者、そして選手の期待を裏切った罪は大きい。
一般企業なら当然、組織の管理監督責任が問われる。会長はじめ当時の組織委幹部は深く憂慮しているのだろうが、彼らから反省、将来に資する意見はほとんど聞かれない。そのことが事態の根深さを思い知らせる。
組織委は、政官民とスポーツ界による「オール・ジャパン体制」と自らを誇った。だが、個々の専門性を適切に生かせず、責任の所在も不明瞭だった。無責任、無自覚のまま戦争に国を引っ張った戦前の指導体制を想起させる。
リーダーの価値観を押し付ける上意下達の手法は、忖度(そんたく)と右へ倣え、前例踏襲の体質を生む。創造や挑戦を可能にする柔軟性も意欲も奪う。
短期間ながら組織委理事を経験し、組織委職員と向き合った。何度か遭遇したのは、アイデアが出されると「上に聞いてみます」が繰り返され、しばらくすると「上がちょっと難しいと言っています」との回答。上とはどこか、明かされることはなかった。
「全体は部分の総和に勝る」とのアリストテレスの言葉を実現する組織には、価値観やビジョンの共有が欠かせない。開催決定後7年を超える活動では、設立時の価値観やビジョンはアップデートされる必要もある。時代や社会の変化は早く、国際社会がスポーツに求める価値も変化する。五輪を開催するなら、国際社会が求める価値に敏感である必要があった。
例えば、汚職や談合が行われた時期に重なる2017年、国際オリンピック委員会(IOC)は五輪の開催都市契約の内容変更を公表した。24年パリ大会から適用される変更ではあったが、五輪に求められる変化を知る手がかりに違いなかった。通常あまり変わらない契約の文言に加えられたのは、人権の保護・尊重と汚職・不正の防止。今回まさに問題となった2点である。
また会長の女性蔑視発言によって筆者ら12人が理事に加わった時点でも、組織委ではIOCのジェンダー平等政策は全く認識されていなかった。
IOCはグローバルなスポーツビジネスとして五輪を利用するが、一方で、国連などと連携し、理想を実現するための政策を打ち出し、実施する。現実と理想のバランスを巧みに操り、生き残ってきた。IOCにとって五輪の原点は、スポーツを通じた平和で公正な社会の醸成という「国際的な教育改革」である。それを知っていれば、組織委はIOCの政策にもっと敏感になれたのではなかったか。
一広告代理店に委ねなければ成功させられなかった事実は、この国の開催資格に疑問符を付ける。だがそれ以上に深刻な欠格は、「教育」という本質を見失い、ビジネスとのバランスの認識を欠いていたことではなかったか。五輪が社会を映す鏡なら、東京大会が問いかけるものは日本社会の公正性とそれを支えるモラルの喪失である。
(新聞用に2023年3月2日配信)
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