【天覧奇術師・阿部徳蔵の生涯 #9】谷崎潤一郎が見舞いに 戦争と病に苦しんだ晩年


昭和天皇に3度マジックを披露した希代の奇術師・阿部徳蔵。その生きざまと、日本におけるマジックの歴史を「東京アマチュア・マジシャンズ・クラブ」の石崎健治さんが紹介する連載の第9回。
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1941年12月、太平洋戦争が勃発。当初は連戦連勝だった日本軍は、半年後のミッドウェー海戦で大敗し、戦局は悪化の一途をたどる。それに伴い、国内にも戦争の影が次第に拡大していく。
「東京アマチュア・マジシャンズ・クラブ」は42年に「奇術文化研究会」と改称。印刷だった会報はガリ版刷りとなり、43年4月でいったん発行が途絶えた。翌5月には緒方知三郎が第4代会長に就任したが、12月にかけて陸軍、海軍病院への慰問を行ったのを最後に活動は中止となる。

この頃の会報には、召集に応じた会員や、軍属として戦地に赴く会員の情報が記されている。創立時のメンバーで、会のカード奇術向上に貢献した英国人ジョイスも母国へ戻った。戦争によって文化、芸術、芸能等の活動が制約され、発展が阻害されるのは、いつの時代も同じである。
この頃、阿部徳蔵は病と闘いながら執筆活動をしていたが、やがて肺病が悪化。44年には鵠沼(神奈川県藤沢市)の自宅で伏せる日々となった。
当時、熱海に住んでいた友人の谷崎潤一郎が、見舞いのため阿部家を訪れたのは同年7月24日。筆者が67年に谷崎の妻松子さんから聞いた話では、自身の小説が発禁処分となり、発表の目途がない『細雪』の原稿を毎日2~3枚書き続けていた時期であったという。

谷崎は阿部家を訪ねた時の情景を随筆「三つの場合 一 阿部さんの場合」(60年「中央公論9月号」)につづっている。病床の阿部は谷崎の訪問を喜び「挨拶より先にウオーツと云ふ凄い声を挙げて泣いた」そうだ。
文中には死期の迫った友人に対し、見舞客への配慮が足りないと腹を立てる自分に嫌悪を覚えたとも書かれているが、それは人生のはかなさを呪う思いからだったのだろうか。それから1カ月後の44年8月25日、阿部は55歳でこの世を去った。(アマチュア奇術家)

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いしざき・けんじ 1948年東京都生まれ。2008年から東京アマチュア・マジシャンズ・クラブ(TAMC)会員。活動の一環として、阿部徳蔵の業績研究を手がける。
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