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ママ・アスリートの「受援力」 月経管理からみえたもの 産婦人科医・スポーツドクター 江夏亜希子

2021.7.30 16:03 共同通信
女子100㍍障害で12秒96の日本新をマークして優勝し、娘とポーズをとる寺田明日香=エディオンスタジアム広島、2021年4月29日撮影
女子100㍍障害で12秒96の日本新をマークして優勝し、娘とポーズをとる寺田明日香=エディオンスタジアム広島、2021年4月29日撮影
 5年ほど前のこと。その人は自治体の子宮がん検診をきっかけに私のクリニックを訪れた。「産後、月経が戻ったので妊娠前に飲んでいた低用量ピルの内服再開についても相談したい」と。
 ▽生理は軽い方がいい
 妊娠前は日本代表レベルの陸上選手。10代から月経痛が強く、18歳から地元札幌でスポーツドクターでもある産婦人科医に低用量ピルを処方してもらっていたとのこと。理想的に月経をコントロールしてきた彼女に、思わず聞いた。「ピルには偏見を持っている人が多くて、飲むと不妊になるとかデマが流れていますよね?心配じゃありませんでした?」
 彼女はこともなげに答えた。「生理は軽い方がいいし、先生からは『やめたらすぐ妊娠できるよ』って言われて。実際すぐに妊娠できました!」と。
 後日、結婚で姓が変わっていた彼女の名前をインターネットで検索した。寺田明日香さん。陸上女子100メートル障害で名をはせ、23歳の若さで引退したことが書かれていた。
 寺田さんが相談に来た低用量ピル。どんな薬かよく知らずに副作用を恐れている人が多いので、月経のしくみとともに少し解説したい。
 女性は、生まれた時に卵子のもとになる卵母細胞を約200万個持っている。その数は思春期に入る頃に30万、20歳で10万ほどに減り、50歳前後でほぼ0になると閉経する。
 思春期以降、その中から毎月1個を排卵するようになるが、これに伴って二つの女性ホルモンが分泌される。子宮内膜を厚くする「卵胞ホルモン」と、排卵後に分泌され子宮内膜を維持する「黄体ホルモン」だ。妊娠しなければ排卵の2週間後にホルモン分泌が停止。すると子宮内膜がはがれ、出血として排出される。これが月経だ。
 避妊薬のイメージが強い低用量ピル、その成分はこの卵胞ホルモンと黄体ホルモンだ。月経中から毎日1錠ずつ内服することで排卵を抑え、自身の卵巣からのホルモン分泌を止めるとともに、子宮内膜を薄く維持する。そのため経血の量が減り、月経痛も軽くなる。内服を中止すれば速やかに排卵が回復する。
 ▽アスリートにもってこい
 寺田さんが希望した低用量ピルは、産後6カ月以降なら授乳中でも服用開始できるので、飲み慣れたものを再開するのもよい。しかし、子育てで忙しい日々、毎日飲み続けるのは面倒だろう。そこで私がお勧めしたのが、当時、月経困難症の治療薬として保険適応となったばかりの「ミレーナ」だ。
 これは、子宮内膜を薄く維持する黄体ホルモンを少量ずつ放出する小さなプラスチック製のデバイスで、子宮の中に留置する。かつては「避妊リング」と呼ばれたものの一種だ。5年にわたり効果を発揮し、保険診療(3割負担)で約1万円とコストパフォーマンスも抜群によい。
 また、内服薬と違い吐き気やむくみといった全身的な副作用も圧倒的に起きにくい。子宮内に入れる際の痛みと最初の数カ月の不正出血を乗り切れば、アスリートにはもってこいだと常々思っていた。説明を聞いた寺田さんはミレーナを選択した。
 ミレーナを使用すると、半年から1年ごとの定期検診をする。その際の寺田さんからの報告には驚かされた。
 1年後。「7人制ラグビーで東京五輪を目指します」
 2年半後。「陸上に戻ることになりました」
 検診のたびに体つきがアスリートのそれに変わっていき、表情も自信に満ちあふれていくのを目の当たりにした。その後の活躍は皆さんもご存じの通り。今年になってからもう一段調子を上げ、ついに東京五輪の代表になった。
 寺田さんご自身が「ママ・アスリート」の存在が日本でも当たり前になることを願い、様々な媒体で積極的に発信している。月経についても重要なテーマの一つ。ミレーナについての私のツイートに、寺田さんが「ミレーナを入れてから、とっても楽になりました」と続けてくれたことがある。彼女の選択はピタリとはまったようだ。
 このコラムの内容についてご本人の承諾を得る際、事実関係を確認しながら時系列を見直して驚いた。1990年生まれの寺田さんが18歳で低用量ピルを飲み始めた2008年は、低用量ピルが保険適用になった年。そしてミレーナが保険適用になった14年9月は、彼女が出産した1カ月後だ。
 こういう人のことを「時代の申し子」というのだろうか。
 しかし、きっとこれは単なる巡りあわせではない。冒頭の文に戻ってみてほしい。もしあの時「ピル処方希望」という申し込みだったら、私はミレーナの提案をしなかったかもしれない。「相談したい」と書いてきたところに彼女の「受援力」の強さを感じるのだ。家族を含め、コーチ、トレーナー、栄養士などによる「チームあすか」の強力なサポートを得ている由縁はこういうところにあるのだろう。
 さあ、いよいよ夢の舞台。どんな走りでまた私を驚かせてくれるのか、期待に胸を膨らませている。
  ×  ×
 えなつ・あきこ 1996年鳥取大卒、同大産婦人科学教室で研修、大学院修了。2004年から東京大大学院教育学研究科身体教育学講座でスポーツ医学を学ぶとともに、女性外来での診療を経験し、10年東京・日本橋人形町に四季レディースクリニック開院。