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自分に見合った顔 「老いるショック」を受け止めて

2016.3.18 10:57

 嬉しいことにまたひとつ年を重ねた。
 昔から、早く年を取りたいという願望があるので、昨年50歳になってからは特に、誕生日を迎えるのが嬉しい。
 心の中で、ひとり(正確には同じ誕生日の愛猫と)祝賀パレードな気分。
 

 それにしても、体は確実に日々変化している。
 眼はかすみ、記憶力は低下。脂っこい食などで胃もたれする。
 それを「老化」或いは「進化」といえばそれまでだが、所詮言葉だ。
 思い切り言葉遊びでもしている方が、楽しいに決まっている。
 

 「老いるショック」という面白い造語を提唱している、みうらじゅん氏。
 老化現象に直面したら、それを大体でいいから面白く受け入れるみたいなことらしい。「クイズ・タイムショック」みたいに、「老いるショーック! チッチッチッチッチッ」と秒針の音を口ずさみ、適当に答えていればいいのだ。
 いかにも、みうら氏らしいユニークな発想ではないだろうか。


 私が最近「老いるショック」を感じるのは「記憶」についてだ。
 おびただしい過去の記憶のハードディスクを整理したところで、これは非常に曖昧でいい加減だったりする場合があるから、恐ろしい。
 もうこれ以上覚えたくないものは省くことにもしている。
 そうでもしないと、記憶の外付けハードディスクばかりが増え、探すだけでひと苦労になる。


 そんな時に「老いるショック」は案外効果がある。
 ウィルモス・スィグモンド(『ディア・ハンター』などの撮影監督)の名前は出てくるのに、東出昌大君の名前をつい“東大君”と呼んでしまったりする。
 そんな時は悲観せずに「チッチッチッチッチッ」と出てこない名前を思い出しながら、「東大君だ!」でいいことにしている。


 そのあとに「ちがーう。ヒガシデ君だってば」と突っ込んで楽しく記憶するフリをしていけばいいのだ。実際、私はそれで彼の名前を覚えた。


 ある日、心なしか多くなった白髪とにらめっこする私。
 それを見つけては「うーん……。白髪翁とぬるいお茶?」と、わけのわからぬ句を詠みながら、「老いるショック」する私。


 すると、横から夫のカッパくんが「それって加藤タキさんみたいに真っ白にするってこと? え、やめなよ。もう少し頑張ろうよ」と茶々を入れてくる。


 ブブー。違うんだなあ。
 デボラ・ハリー(パンクロックバンド「ブロンディ」のボーカル。あるいは映画『ヴィデオドローム』のヒロイン/85年日本公開 D・クローネンバーグ監督作品)と言う回答が欲しかった!


 最近は原宿などで、銀髪や白髪に染めているおしゃれな若い子たちも見かける。それとは似ているようで、微妙に違うけれど、素敵な白髪スタイルに憧れる私。
 白髪を染めないで、どこまで私らしくいられるか? とずっと問答していた。

 
 いい加減もうこの白髪とも「YO—YO—! HEY! SHIRAGA!」と、仲良くなりたいのである。


 先日、19歳からお世話になっているヘアスタイリストの小松利幸さんにその旨を相談してみた。
 「白髪と仲良くなりたいから、もう白髪を染めたくないのだけど」
 小松さんは、鏡越しにそう告白する私の顔を見つめ、白髪混じりの髪をいじりながら、渋い表情を浮かべしばし黙り込んでいた。
 まるでMacのレインボーマークがくるくると頭上を回っているかの如し数分。
 

 私が「うちの人は反対派なんだよねえ。もう少し、60歳くらいまで頑張ろうよって」というと、「ああ、男の人ってそう思っている人が多いと思いますよ。でも、まあそうねえ……」
 白髪を染めずに洞口依子らしく見えるスタイルというヘアカラーをやってみることになった。


 しかもコンセプトは、南の島にいる日系人なのだそうだ(ぶっ飛び)。
 どこだろう。ハワイだろうか、タヒチだろうか。
 なかなか面白そうなことになってきた。
 早速、綿密なヘアカラーをすることに。


 いちいち少しずつ髪を掬って染めるので時間もかかり、美容師さんたちは大変そう。だが、私もうたた寝なんかせずに、その時間にちゃんと付き合う。
 

 毛先は南洋の陽の光のように明るく染め、根元に向かうにつれて、白髪と染めた毛の色が光に反射するといいバランスに交わって見える。
 それらが、私の少し日焼けした顔の肌色に似合うよう仕上げてくださった。 


 南の島の日系人かどうかは謎だが、かなり気に入った。
 同世代の女子友に見せたら「さすが洞口依子らしい」と褒めてくれた。
 

 そう。
 この、誰かに褒めてもらうということも最近少なくなってきたので、ものすごく心に沁みる。
 

 幼い頃からあまり人に褒められたことがなかった私は、褒められるとどうも疑心暗鬼になる。嘘だろう。いや嘘に決まっていると。
 それでも、いくつになっても褒められるということは、案外大事なことなのだと私は思う。若い頃は散々叱られたけれど、歳をとると叱られもしない。だが、その代わり褒められもしない。ひとは、いくつになっても子どものように褒められたい生き物なのかもしれない。


 同世代女子会トーク(ほとんどしないけど)で話題になるのは、顔のことだったりもする。
 乾燥によるシワ。シミ。たるみ。ほうれい線。
 正直、私だって気にならなくはない。


 日焼け後は保湿必須。特に乾燥する冬場は部屋に加湿器を2台。
 それでもシワやたるみは出る。
 いつまでも20代の私であるわけがない。
 そしてそんな話題になると決まって言われるセリフがある。
 「ヨーリーは童顔だから……」
  

 童顔。
 この言葉をいつの頃から今まで言われ続けてきたことだろう。
 記憶にある感じでは、確か10代の頃からだったと思う。
 10代の頃に「童顔」と言われるのはなんとも複雑な気分で、一体何と比較して「童顔」と思われたのだろうか?


 「これだよこれ」と友達が指差したのが、キューピー人形だった。
 私はキューピー人形が嫌いじゃないし、キューピーの“たらこキューピー”をみるたびに、愛らしいなあと思うくらいだ。


 だが、50歳を過ぎても「童顔だから」と言われると、まるで何も進化していないダメなやつみたいに思えてくる。
 まあ、せめて、たらこにくるまっている“たらこキューピー”ならばスタイルは一生バレないからいいことにするか。
 何事も面白がって、褒め言葉だと思うようにしている。
 

 ある科学番組で、70歳以上の顔になるために特殊メイクを施したことがあった。
 ゴム製の皮膚のようなマスクを貼ってゆき、たるみを出したり、シワを加工するのだが、老人の特殊メイクはとても貴重な体験だった。


 しかし、声が老けない。歩き方がそうなっていないという点では、海外などの映画で完璧に老けている役者を見ると、ただただ尊敬するばかりだ。
 

 そのロケでは、老けメイクから30代くらいの若いメイクに変わる時が大変だった。皮膚をリフトアップするのに、髪の毛を引っ張って吊ったり、見たこともない美容器具でマッサージしたり。メイクさんも若返りメイクを施すのに必死である。


 仕事柄、いろいろな役を演じる上で、老けたり若返ったりはするものの、それはあくまで役柄だ。
 仕事とはいえ、肌にも肉体にも負担は掛かる。
 役から抜けた私は、白い布を脱ぎ捨てた、おばけのQ太郎のように、一瞬透明になる。
 透明になった私は、仕事から離れ、一切の無理をしない。
 日常の私は化粧などほとんど施さないし、ノーブラでいることだって多い。
 たまにおしゃれもするが、靴を脱いで裸足でいるのが好き。


 海で泳いでいる時が一番落ち着く。
 だから、私は海へ行く。
 海で嫌なギトギトやベトベトを洗い流し、太陽と戯れる。
 すると、自然に泣けてきたり、笑ったり、あるがままだ。
 それこそが、私の美容または、健康法なのかもしれない。

 

 夜と朝。鏡に映る自分の顔を見て思う。
 きょうは笑えた?
 きょうは笑える?
 笑う角に福来るではないが、「笑う口角に福が来る」のだと私は思っている。


 誰だって老いる。
 それといかに仲良くなるか、抵抗しながら生きてゆくか。
 それはひとぞれぞれの選択。
 どちらにせよ、人生は愉快であった方がいいに決まっている。
 愉快じゃないと、泣いてばかりだし、気持ちがすさんでストレスになる。
 顔に陰りが出て、笑い方すら忘れてしまう。
 
 
 ポルトガルの映画監督・ミゲル・ゴメスの『自分に見合った顔』(2004年)で「30歳までは神様がくれた顔、それ以降は自分に見合った顔になる」というセリフがある。


 自分に見合った顔。
 いま私は、どんな顔をしているだろう。
 どんな顔であれ、顔というものは面白い。
 愛し、愛されたり。
 いくら変わっても変わらぬ何かがそこにはある。
 

 童顔だろうが老け顔だろうが、
 私はこの顔を愛し続けていきたいと、なんとなく思うのであった。

現在・過去・未来 いくつになっても自分の顔を面白がりたい
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