五輪開催信じて集中を 重圧にさらされる選手 【為末大の視点】

2021年06月08日
共同通信共同通信

 東京五輪開幕まで2カ月を切る中、新型コロナウイルスの影響で各国の選手たちは厳しい状況に置かれている。
 アスリートは頑強な体を持っているが、日常的に強い重圧にさらされているため、実際には一般の人間よりも鬱(うつ)傾向にあるといわれている。サッカーでは38%もの現役選手たちが過去に鬱や不安に悩まされたという調査もある。
 特に五輪のようなビッグイベントの前後は、アスリートたちが極めて不安定な精神状態に立たされる。コロナ感染が収束せず「五輪のために練習をするのは悪いことなのではないか」という悩みを抱えている選手もいると聞いた。本当にギリギリの状況だ。

緊急事態宣言下、無観客で行われた陸上東京五輪テスト大会の男子100メートル予選で、一斉にスタートする選手=5月9日、国立競技場
緊急事態宣言下、無観客で行われた陸上東京五輪テスト大会の男子100メートル予選で、一斉にスタートする選手=5月9日、国立競技場

 


 代表であるということの重圧は大きい。五輪が開催されることになれば、選手は各国の代表として出場しなければならない。いざ試合が始まればやはりメダルを見たいという国民の声も上がるだろうし、選手自身もできるだけ良いパフォーマンスをしたいだろう。
 五輪選手のレベルになると、練習は量よりも質が重要になる。質とは集中のことだ。医療体制が逼迫(ひっぱく)して世論が揺らぐ中、「五輪が開催される」と信じ込んで集中しなければならない。疑った数だけ、本番でほころびが生まれるからだ。
 ▽代表の役割
 私自身もどうすべきか分からなくなっている。元選手として現役アスリートの気持ちは痛いほど分かる。一方で、このような切迫した状況で本当に五輪を開いていいのかが分からない。
 今回はホスト国で他国の選手たちに場所を提供する責任も担っているため、日本のことだけを考えて決定するわけにもいかない。情けないが専門家の判断に委ねることしか思いつかない。
 18歳で初めて日本代表になってから30歳までの12年間、何度か代表選手として試合に出場した。回数を重ねるごとに代表でいることが当然のようになっていった。
 競い合った選手がいた。元々は彼が400メートル障害のチャンピオンで、私が後から400メートル障害に転向し、最初のレースで彼を破ってから一度も負けなかった。「俺の分も頑張って」と言い、彼はアテネ五輪を最後に引退した。
 それから代表選手とは何かということを考え始めた。スポーツの世界は理不尽でもある。自分なりに努力したつもりだが、彼も同じくらい努力していた。もっと努力した選手が他にもいただろう。けれども、なぜか私が勝ち続けた。代表の役割についても意識するようになった。
 今から走るこのレースは誰かが走りたかったレースであり、この人生もまた誰かが生きたかった人生なのだ。気持ちが窮屈になったが、代表として挑むレースが尊くもなった。
 東京五輪・パラリンピックが延期された昨年から、競技ができる環境について「当たり前のことが当たり前ではないと気付いた」「感謝したい」という選手たちの声が増えた。アスリートの意識も変わりつつある。

 陸上のテスト大会が行われている国利競技場周辺で、東京五輪中止を訴える人たち=5月9日
 陸上のテスト大会が行われている国利競技場周辺で、東京五輪中止を訴える人たち=5月9日

 


 ▽共同体感覚
 コロナ禍は社会に不条理な状況をもたらしている。世界で格差が広がりつつある。好景気に沸く人々も、明日の生活がどうなるか分からない状態に追い込まれている人々もいる。
 日本ではまだ分断は辛うじて生まれていないが、状況は厳しい。これを防ぐには困窮している人々への支援と、自分以外の人生を想像し「私たちは同じ船に乗っている」という共同体感覚を持つことではないか。
 共同体感覚は不安定であるが故に、定期的に確認しておかなければ、すぐ小さなグループがつくられ、違いに注目して分断を生み出してしまう。五輪の一つの意義は、アスリートを通して「私たち」という感覚をさまざまなレベルで認識し直すことにある。
 五輪が開催されてもされなくても、ここまで社会が五輪開催に向け尽力してくれたことに元代表選手としては感謝したい。現役のアスリートもそう感じるはずだ。
 そして選手たちにはこの夏がどんな夏になったとしても、胸を張って生きていってほしいと願う。これだけ苦しい1年間は私の競技人生ではなかった。そこを生き抜いた経験を誇りに思ってほしい。(元陸上選手)=37回

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