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47リポーターズ

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「人生は続く」復活の歌    悲しみ秘めたコメディアン

2018.2.27 14:59
「アニェイン」の舞台に立ち、踊り子と歌うミャンマーの人気コメディアン、ミッター(右)。観客だけでなく共演者も即興で巻き込む。会場全体が大きな笑いで包まれた=ミャンマー・ダイウー(撮影・村山幸親、共同)
 「アニェイン」の舞台に立ち、踊り子と歌うミャンマーの人気コメディアン、ミッター(右)。観客だけでなく共演者も即興で巻き込む。会場全体が大きな笑いで包まれた=ミャンマー・ダイウー(撮影・村山幸親、共同)

 

 辺りがすっかり暗くなった。ミャンマー中部の田舎町ダイウーでは、臨時の野外ステージの前に千人以上の老若男女が集まっていた。今日は1年で一番大きな祭りの日。皆、目をきらきらと輝かせ、舞台の始まりを今か今かと待っていた。

 ポポン、ポポン―。軽快な太鼓の音が響きだす。伝統の合奏に合わせて、歌舞とコントの大衆芸能「アニェイン」の舞台が幕を開けた。
 2時間以上がたち、満を持して人気コメディアンのミッター(本名・キン・マウン・ミン)=(63)=が登場。圧倒的な存在感を放っている。

 「私は昔、ある替え歌を歌って、約10年間活動禁止になりました。今日はその歌を歌います」

 耳に優しい低い声。ミャンマー人なら誰でも知っている歌だ。歌詞は停電の頻発や、コメ価格の高騰を皮肉る内容に替わっている。この歌で人生が暗転したのは、もう過去のことだ。

 ▽青天のへきれき

 「ミッター」は大学で教えを受けた教授が付けた芸名で、「慈愛」を意味する。在学中からコメディアンとして活動、だんだんと存在が知られるように。就職したが、声が掛かると舞台に立った。

 失業など曲折を経て、1992年に出演した音楽劇が成功し、有名人に。テレビ番組の司会など、活躍の場を広げていった。しかし、当時は88年からの軍事政権期。順調に進み始めたミッターの人生にも、時代が暗い影を落とす。

活動禁止期間中にミッターがよく訪れた最大都市ヤンゴンの仏塔、シュエダゴン・パゴダ。この日も大勢の人たちが祈りをささげていた(撮影・村山幸親、共同)
 活動禁止期間中にミッターがよく訪れた最大都市ヤンゴンの仏塔、シュエダゴン・パゴダ。この日も大勢の人たちが祈りをささげていた(撮影・村山幸親、共同)

 政権を皮肉り、活動家となるコメディアンもいた。ミッターは人を楽しませる本来の芸を貫いた。それでも、98年の公演で何げなく歌ったあの替え歌と、軍政による大学閉鎖を風刺した発言が政権批判と見なされ、活動禁止になる。当時44歳。青天のへきれきだった。

 「急に声を掛けてくれなくなった人もいて悲しかった。親しいと思われたくなかったのだろう」

 表舞台から遠ざかり、映画や舞台の台本を書くのが主な仕事に。地方でこっそりと公演し、多少の収入を得ることはあったが、蓄えを切り崩しながら暮らした。活動禁止の4日後に、母親が心臓発作を起こした。最大都市ヤンゴンの仏塔、シュエダゴン・パゴダで、一心に祈る時間が心の支えだった。

 兄貴分のエイ・トゥン(67)は「彼は政権を直接批判したことはなく、これほど長い活動禁止は予想外だった」と振り返る。ミッターがこの時期、生活のために、持っていた宝飾品などを売っていたとも明かした。

 ▽少年の夢

 「苦しい時もユーモアが救ってくれた」。ミッターの原点には、悲しみに満ちた子供時代がある。父親はミャンマー独立のため英国軍と闘った。日本の占領時代(42~45年)、日本兵に乱暴されそうになった少女を助けて結婚。だが、妻が身ごもると姿を消した。

 「不幸せな子供だった」。思い出すと涙が浮かぶ。母親はあまり家にいなかった。祖父母に育てられた。「近所の寺院に行くと、いつもお祈りをしていたんだ。『次に生まれてくるときは、どうか両親と一緒に暮らせますように』ってね」

 好きだったのは踊ること。祭りの音楽が聞こえてくると自然に体が動いた。祖先に踊りの名手がいたので、その影響かもしれない。

 15歳の時だったと思う。仏教暦の正月を祝う「水掛け祭り」で、たまたま民衆の不満を歌う「タンジャ」のグループに加わった。初めて舞台の上で、人を笑わせた。「人を幸せにしたい」。寂しかったからこそ、人を元気づける存在になりたいと強く願った。

 あのころ披露した歌が今も口をついて出る。「つらいことがあっても人生は続く。流れに乗って進んでいこう―」

 ▽後継者

 2007年、活動禁止が解除された。翌年に活動を再開。やがてミャンマーは民主化へとかじを切り、時代は大きく動いていく。16年春にアウン・サン・スー・チーが国家顧問に就任。同年の水掛け祭りで、スー・チーの招きを受け、タンジャを披露した。

ミッターたちの演じるコントに大喜びの観客。普段は静かな田舎町に深夜まで笑い声が響いた=ミャンマー・ダイウー(撮影・村山幸親、共同)
 ミッターたちの演じるコントに大喜びの観客。普段は静かな田舎町に深夜まで笑い声が響いた=ミャンマー・ダイウー(撮影・村山幸親、共同)

 息子、ミッター・ミン・ミャット・ヘイン(20)も、父の背中を追いかけてコメディアンになった。「父に教わるときもあるが、主に自分で研究する」。不格好な女装とひょうきんな表情で、観客の視線を引きつける。舞台度胸は父親譲りだ。

 後継者はできた。でも気がかりなこともある。今年の春、タンジャの公演に出ようとしたが、当局が事前に歌詞を確認しようとしたのだ。軍政時代の検閲を思い出した。結局、出演はしなかった。来年こそは、なんとか自由に参加したい。

 ミッターは言う。「人生は山を登るようなもの。休憩もあるけれど、いつか頂上で、成功の旗を掲げるんだ」。天性のコメディアンは右手の親指を立てて、にかっと笑った。(敬称略、共同通信・井上千日彩)

 ◎エピローグ/少年のような目 

 取材が終わると、ミッターは突然立ち上がった。「新しい歌ができた」。アイデアはとめどなく浮かんでくる。その目は、まるで少年のようだ。

 コントや替え歌はいつも「突然ひらめく」。散歩中など状況はさまざま。新たなネタは紙にメモしておき、自宅で夜にまとめるという。

 皮肉の矛先は、昔も今もあまり変わらない。軍政時代のような締め付けはなくなり、息苦しさは消えた。夜遅くまで飲み歩くこともできる。しかし、役人が賄賂を要求し、物価の高騰が市民を苦しめる。社会の構造は、基本的には変わっていない。人々は笑いに不満のはけ口を求める。民主化はまだ道半ばだ。

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