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日中結ぶドラムの響き 子どもに託す自由への思い

2018.1.29 13:37
ドラムのサマースクールで、仲間の演奏するロックのリズムに合わせて熱狂する生徒たちとファンキー末吉。子どもたちは音楽を通じ、初めて出会った日本人講師たちとすぐに打ち解けた=中国山東省臨沂市(撮影・池上まどか、共同)
ドラムのサマースクールで、仲間の演奏するロックのリズムに合わせて熱狂する生徒たちとファンキー末吉。子どもたちは音楽を通じ、初めて出会った日本人講師たちとすぐに打ち解けた=中国山東省臨沂市(撮影・池上まどか、共同)

 

 人気ロックバンド、爆風スランプのドラマーだったファンキー末吉(58)が音楽活動の拠点を北京へ移して17年。黎明(れいめい)期の中国ロックを応援してきたファンキーは、地元の若手ミュージシャンから先輩格として敬愛されている。3年前からは子ども向けサマースクールを日中両国で開き、ドラマー育成に努めてきた。

               ▽日本人として

 「人なつっこい子たちもいて、終業式の別れの日には、思わず胸にぐっとこみ上げてくることもあります」

天安門事件から28年を迎えた朝、いつもと同様に行われた国旗掲揚式=6月4日、北京の天安門広場(撮影・福原健三郎、共同)
天安門事件から28年を迎えた朝、いつもと同様に行われた国旗掲揚式=6月4日、北京の天安門広場(撮影・福原健三郎、共同)

 ビル4階の三つの練習室はドラムの音や子どもたちの歓声で熱気にあふれていた。今夏、山東省臨沂市(りんきし)で開かれたサマースクールには、校長のファンキーら日本人ドラマー3人を講師に3~17歳の生徒約40人が参加した。  

 「先生のように自由自在にドラムをたたけるようになりたい」(小学5年女子)。「どうすればあんなに速く足が動くのだろう」(高校2年男子)。子どもたちはファンキーたちの授業に真剣に耳を傾ける。

 高度成長下、中国の人々の暮らしは豊かになり、習い事も多様化。ピアノやバイオリンだけでなく、ドラムやエレキギターなど軽音楽用の楽器を習う子も増えた。

 日本のドラムメーカー、パール楽器製造の中国代理店は約140の都市にドラム教室を展開し、生徒数は毎年延べ約3万人。ファンキーは各地の教室を回って演奏を披露し、サマースクール設立のきっかけとなった。

 生徒たちは練習後、バンド形式でドラムの成果を披露。ロック音楽にノリノリの子どもたちが見せる飛び切りの笑顔にファンキーは目を細める。
 「中国では(歴史教育などで)日本人は悪いというイメージを持つ子どももいる。初めて会った日本人の僕らに親しみを持ってもらえれば」

               ▽命懸け

 爆風スランプは1988年にファンキーが作曲した「Runner」が大ヒットし、同年から2年連続でNHK紅白歌合戦に出場した。し

サマースクールでドラム速打ちコンテストに挑戦する男の子=中国山東省臨沂市(撮影・池上まどか、共同)
サマースクールでドラム速打ちコンテストに挑戦する男の子=中国山東省臨沂市(撮影・池上まどか、共同)

かし、芸能界がつくり上げた「虚像」になじめないファンキーは、中国にアイデンティティーを求めた。

 「かつての中国は暗黒大陸のよう。巨大な社会主義国の実態はよく分からなかった」。89年には学生たちの民主化運動を武力で弾圧した天安門事件も起きた。

 翌年、ファンキーは初めて中国を訪ね、地下で活動をしていたロックバンド「黒豹(ヘイバオ)」のメンバーら若いロッカーと出会う。「荒削りだが、ハングリーで、可能性を秘めた彼ら」に強く引かれた。

 92年9月、北京の労働者体育館で行われた爆風スランプの中国初ツアーのステージ。1曲目が終わると、突然、音響設備の電源が切られた。ロックに興奮した若い聴衆が立ち上がり、混乱を恐れた警官が演奏中止を命じたのだ。演奏を続けさせようとした中国人スタッフは、警官から殴る蹴るの暴行を受けた。当時、ロックはまさに資本主義国の“敵性音楽”だった。

 「昔、中国でロックをやるのは、命懸けだった。今は子どもたちが米国のヘビーメタルを平気で演奏できる。まさに隔世の感です」

               ▽自由の広がり

地図
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 2000年、中国に拠点を移し、金のない若いロッカーたちが暮らす北京郊外の貧民街に住むようになった。簡素な農家を借りて改装し、ドラム用のスタジオを設けた。中国のミュージシャンのためにドラムをたたき、作詞作曲をし、プロデューサーを務めた。

 「初めて彼のドラムを聞いたとき、すごい腕を持つ本物のミュージシャンだと思った。中国ロックの師匠として多くの若手を育てた。中国のロック界でファンキーを知らないやつはもぐりだ」

 黒豹の元メンバーの兄で、音楽制作会社を経営する欒述偉(らん・じゅつい)(50)はファンキーと二十数年来のつきあいで「義兄弟」の間柄だ。

 貧乏だった黒豹ら中国人ロッカーも売れると豊かになり、高級マンションに住むようになった。
 「ロックの夢を追っていた若者が今では不動産と車と女の話ばかり」
 ファンキーが今も貧民街で下積みのバンドと暮らしているのは、あの頃の「熱い北京」が懐かしいからか。

 「自由になりたいね いつか自由になれたら もううそなんてつかなくていい 輝ける未来のために頑張っていける」

 約20年前、ファンキーが若い女性歌手、李慧珍(り・けいちん)のために作詞作曲した「レット・ミー・ビー・フリー」。この曲は当時のファンキーが中国の若いロッカーに贈った心からのエールだった。

 ファンキーは今、中国の少年少女たちの間に、ロック音楽で「笑顔」を広げている。「中国の民主化は進まないが、ロックの自由の幅は確かに広がった。生涯、この国で音楽を続け、子どもたちにドラムを教えたい」。ファンキーの中国への思い入れは筋金入りだ。(敬称略、共同通信・森保裕)

                 【エピローグ】締め付けに危うさも 

中国の天安門事件から28年、民主状況は後退気味だが、ロックやポップスなどの音楽表現の自由の幅は広がった。

 中国出身の作家、楊逸(ヤン・イー)の小説「時が滲(にじ)む朝」には、天安門事件当時「退廃的な音楽」とされていた台湾の歌手テレサ・テンの甘い歌声に、若い主人公が引かれる様子が描かれている。今はテレサの歌も市民権を得た。

 中国の人々はインターネットを通じて国外の音楽や映画に触れ、豊かになって海外旅行や留学へ行く人も増えた。
 しかし、中国政府は共産党独裁を堅持するために人権派弁護士を摘発するなど政治的引き締めを強める。時代の流れに逆行する締め付けに危うさを禁じ得ない。

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