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金メダリスト、孫に安らぎ 病で暗転した成功物語 

2018.1.19 12:19
 孫タイソン君と自宅のプールで遊ぶジョン・コンラッズ。元気に飛び込む姿を笑顔で見守っていた=オーストラリア・ヌーサ(撮影・金森マユ、共同)
 孫タイソン君と自宅のプールで遊ぶジョン・コンラッズ。元気に飛び込む姿を笑顔で見守っていた=オーストラリア・ヌーサ(撮影・金森マユ、共同)

 

 オーストラリア東岸の保養地ヌーサ。静かな自宅で、ちょっぴりおなかの出たジョン・コンラッズ(75)は、人生を彩った自らの笑顔を回想した。「最高のスマイルは長男、アレックスが生まれた時だ。1971年7月12日だよ。オリンピックの金メダル? ナチュラルな笑いだったと思う」

 60年ローマ五輪の競泳、男子1500メートル自由形の優勝者である。日本の山中毅のよきライバルだった。引退後はビジネスの世界でも成功。だが、サクセスストーリーはうつ病で暗転した。症状が落ち着いた現在、5歳の孫タイソン君と遊ぶ日常の中に安らぎがある。

                  ▽相手は時計

 ラトビアで生まれた。両親は軍関係の歯科医。ソ連に併合され、第2次大戦でドイツの侵攻を受け、再びソ連軍が迫った。国民は「丘の向こうは敵」とソ連を嫌った。ドイツ軍敗走の最後の船でポーランドに逃れた。逃避行中、米軍の空襲を受けた。「きょうだい3人、地下室の一つのいすの上で何時間も過ごした」。2歳の恐怖の記憶だ。

1960年ローマ五輪の競泳男子400㍍自由形で3位になったジョン・コンラッズ(右)。優勝したマレー・ローズ(左)、2位の山中毅と健闘をたたえ合った(UPI=共同)
1960年ローマ五輪の競泳男子400㍍自由形で3位になったジョン・コンラッズ(右)。優勝したマレー・ローズ(左)、2位の山中毅と健闘をたたえ合った(UPI=共同)

 水泳は、大戦後移住したオーストラリアで覚えた。移民キャンプ近くの池で溺れることを心配した父が手ほどきした。「平泳ぎだよ。でも他の子がクロールで速いのでそちらで泳いだ」そうだ。
 シドニーでスイミングクラブに入った。そこが起点だった。自転車で通い、コーチのドン・タルボットに鍛えられた。14歳で56年メルボルン五輪の補欠に選ばれ、銀メダルの山中と出会う。「日本は戦争のイメージがあったが、ヤマナカが日本チームのジャケットをくれた。私たちの友情の始まりだった」と語った。

 五輪2年後、自由形で世界新記録を連発し、ローマ五輪期待の星に。だが400メートルは先輩マレー・ローズと山中に屈した。競り合いに弱かった。

 「僕はタイムトライアルスイマー」と振り返った。時計を相手にした方が強いとのニュアンスがこもる。最後を飾る1500メートルは言葉通りとなった。40度の炎暑の去ったローマの夜。体に時計を組み込んだかのように正確なラップを刻む。力強い山中らを逆転して金メダル。他の選手が去った屋外プールを、一人で5分もかけて再び泳ぎ、世界一の余韻に浸った。プールサイドには失意の山中が忘れた黄色い靴下だけが残されていた。

 その後、米国の南カリフォルニア大に留学し西海岸の生活に溺れた。「ビールと女の子に夢中になり、タルボットとの練習の日々を忘れた」。64年東京五輪はリレーの予選のみ。「もう峠を越えた」と悟った。

                   ▽メダルを売る

 引退後、パリに暮らし、4歳年下のオランダ人、ミッキと恋に落ちた。彼女の関係から、30歳で大手化粧品ロレアルのオーストラリアの役員に抜てきされた。「何年分ものクリスマスが一度に来た」。美しい妻と子に恵まれ、母国に戻る。高級住宅に高級車。会社負担で家族の欧州旅行―。

 14年間ロレアルに勤めた後、オーストラリア第2の航空会社、アンセットの幹部も務める。ビジネスという第二の人生でも成功の階段を歩んだ。

 その傍ら影が忍び寄っていた。心の病だった。
 「70年代後半からアップ・アンド・ダウンがゆっくり始まっていた」とオーストラリアのメディアに語っている。春になると気分が落ち込む。あらゆることが困難に感じた。家族、借金、抵当…。仕事が手につかず、事務所を歩き回って仕事のふりをした。「今から思えば、多分それがうつ病の最初のサインだった」

 そんな生活の伴奏者は酒だった。帰宅後にスコッチを3~5杯あおる。リラックスに必要だった。「会社のトップで働き、ランチや豪華な食事で飲み、出張はファーストクラスでシャンパン」と語ったが、これが“表の酒”なら、気持ちを静めるための“裏の酒”が常態化していった。

 アンセットの後、スポーツ関係の計画などに関わったが、うまくいかなかった。収入を失った。経済的に窮した。高級住宅地の自宅を売った。家族とぎくしゃくした。かなり後だが、栄光の証し、国際大会の数多いメダルをオークションに出した。「お金が必要だった」。小声だった。

                  ▽自分のベストを

 2002年、医師から中程度のうつ病と診断された。過去の名声に反して、アルコール過多から崩れてゆく生活。知り合いの人生と比べて落ち込んでも不思議ではない。
 実はインタビューでは回復過程を詳しくは語らなかった。「完治したのか」と尋ねると「大丈夫。薬で徐々によくなった。アルコー

オーストラリアの保養地ヌーサの静かな自宅に集うコンラッズ一家。手前は孫タイソン君を抱くジョンと妻ミッキ(撮影・金森マユ、共同)
オーストラリアの保養地ヌーサの静かな自宅に集うコンラッズ一家。手前は孫タイソン君を抱くジョンと妻ミッキ(撮影・金森マユ、共同)

ルには気をつけなければならないが」と応えた。ただ、ソーダ割りらしい薄いウイスキーを手放さなかった。

 「ミッキは常にそばにいてくれた」と妻に感謝する。暗い日々は過ぎ去った。輝きはまだ少し遠いが。だから孫との戯れの中に浮かぶ笑顔が、一家の明るさに貴重でもある。「他人と比べない。自分のベストを尽くす」。人生に通底するメッセージが時に口をつく。(敬称略、共同通信・小沢剛)

     【エピローグ】笑顔取り戻す困難さ  

 光と影は五輪金メダリストにも例外なく訪れる。過去の栄光を背負う人物ほど、再生への重圧はきついのだろう。コンラッズを取材してそう感じた。笑顔を取り戻すのは容易ではないのだと。

 山中とのエピソードを実に楽しそうに語った。南カリフォルニア大時代や、1964年東京五輪の「明かせない話」も。今年2月に山中が亡くなった際、追悼メッセージを送ったのは、友情がプールの中だけにとどまらなかった証しである。

 3年後、再び日本に五輪が来る。自らの、そして友人ヤミー(山中の愛称)と、最後の五輪を過ごした東京。「行って見たい」と願っている。

 

 

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