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南京虐殺と2人の監督

2012.2.28 12:27 共同通信

 ▽南京虐殺と2人の監督 

 映画監督山中貞雄が日中全面戦争で入営したのは、1937(昭和12)年8月末。遺作「人情紙風船」が公開された日だった。「『人情紙風船』が遺作ではチトサビシイ」という言葉を残して戦場へ。そして、山中を見送った親友の小津安二郎も、毒ガス部隊員として翌月召集される。2人の部隊はいずれも、当時の中国国民党政府の首都・南京を目指した。山中の部隊は南京攻略戦に加わり、小津の部隊は間に合わなかった。

 2人は翌年、南京近郊で1度だけ再会する。そのときの2人の心中を想像する。上海から南京へ進攻する間、日本軍は各地で、小規模だが南京虐殺と同様の行為を起こしている。2人の映画監督は、自らは手を下さなかったとしても、それを現認したことは間違いない。小津が従軍中に記した「創作ノート」にも、現場に居合わせたとしか思えない、中国人老女の殺害行為が書かれている。戦場の現実を前に、2人が交わした言葉は少なかっただろう。

 河村名古屋市長の「南京大虐殺はなかったのではないか」という発言が波紋を広げている。中国側の反発に、市長は「30万人規模の大虐殺はなかったという趣旨だった」と釈明したが、発言は撤回していない。そもそも、本音は「全面否定」だったように私には思える。

 この問題は既におおよその決着がついている。旧陸軍将校の親睦団体「偕行社」が証言を集めた結果でさえ「数千人規模の虐殺があったことは否定できない」だった。残された問題は①被害者の規模がどのくらいか②中国人が便衣(普段着)兵だった可能性②指揮系統に基づく命令があったかどうか―などだろう。日中共同研究でも、規模について意見対立は残ったが、大筋で見解は一致したはずだ。

 父親の体験を基に市長が持論を展開した心情は分からないではない。しかしいま、行為自体を否定することに、ほとんど意味はない。30万人ならいけないが、数千人ならいいのか。日中間で意見交換をすべきだというのなら、まず「規模は別として虐殺があった」ことを認めるのが第一歩ではないのか。

 山中は戦病死。小津は生き残って、戦後数々の名画をつくった。戦場について語ることはなかったが、遺作に至るまで、作品には戦争の影が強く感じられる。戦争の悲惨は長く、さまざまな形で残る。事実を直視したうえで、過去を検証すべきだと思う。(2012年2月28日 47NEWS編集部 小池新)

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