私の「沈黙」=後編
台北入り3日目。
早朝5時20分出発。
ロケバスは台北を出て1時間ほどで、北の海岸線に出た。
ロケ地は「三芝海岸」。
だが、雨で視界が悪く、辺りの様子がいまひとつ把握できない。
朝、到着すると、簡易待合室に「ロケ弁」が用意されていた。
初めてみる台湾の握り飯。それは細長い形状の粽(ちまき)に近いものだった。
珍しかったので一ついただき、カバンに忍ばせた。
まず現場では、スタッフに一枚のメモを手渡した。
私が火あぶりにされる場面で唱えたいと、「祈りの言葉」を原作から抜き出してきたのだ。
しばらくして、別の場面の台詞にある「祈りの言葉」のコピーが配布された。私はそれも覚えるようメモしたが、自分自身で原作から抜粋した〝祈りの言葉〟も走り書きした。
そして、いよいよメイク開始。
細かいメッシュ網に一本ずつ白髪混じりの髪が植え付けられたかつらを被る。これはとても軽くて楽だった。生え際もとてもリアルに見える。
メイクの手際もよく、シミや痘痕をつけ、前歯に汚れを施す特殊メイクをしたら出来上がりだ。
いざ、ロケ現場となる海岸へ。
天候悪し。
小雨降る中、レインコートを羽織ってリハーサルとテスト。
本番までしばらく浜辺に設置された待合のテントで待機。
しかし、天候悪く、カメラは昼どきになってもまだ回らない。
その間、ひっきりなしにケータリングサービス。温かい飲み物や
軽食、点心などがトレイに乗ってやってくる。
「寒くない?」とスタッフからお湯入りのペットボトルを差し出される。それを着物の袂から入れて暖をとれというのだ。
「大丈夫」と返しても、湯のペットボトルをせっせと替えるという徹底した心遣い。
ビーチの砂が強風に舞い、口を開ければ砂を噛み、目も開けてられないほどだ。そんな中で、自分の背丈より大きなガンマイクを抱いたまま片手で弁当を食べている音声さんはいるし、風で飛ばされそうな照明マン、美術の建て込みで右往左往しているスタッフなどの姿も見える。
台湾、米国、日本、オーストラリア、イギリス、イタリア・・・多国籍の混成チームが「ノルマンディ上陸大作戦」の兵隊のように素早く動く。
砂嵐と冷たい小糠雨に濡れながらも、監督以下、誰も大声で怒鳴ったり文句を垂れたりすることはない。
そこは、まさにサイレンス(沈黙)。
聞こえてくるのは、砂嵐、雨、白波のうねり、ぬかるんだ浜を歩く音だけ。
なんて幸せな戦場!
「まさに映画だ!」私は震えた。
昼過ぎ、やや小雨になったところで、いよいよ本番準備の声が掛かる。
組み合わせた丸太の上に放られ、キチジローの家族が火あぶりになる場面。スタントの台湾人男性には本当に火が着けられ燃えると聞いている。
速やかにキャメラ・テストが始まる。
今回本作でオスカーにノミネートされた撮影監督ロドリゴ・プリエトのキャメラにはARRIの文字が。映画撮影における名機・ドイツARRI社アリフレックスのキャメラたち。
今回は、前作の『ウルフ・オブ・ウォールストリート』同様、フィルム撮影とデジタルの組み合わせ。撮影監督も同じく名匠ロドリゴ・プリエト。
しかも、見たこともない巨大テクノクレーンがスタンバイしている。
いちいち現場の機材に興奮している私の姿はといえば、簀巻きにされ身動きが取れぬ「みの虫状態」。泥だらけの素足はすっかり冷え切っていたが、心は熱くいつでもキャメラの前で〝死ねる〟。そんな気持ちでいっぱいだった。
しかしこの期に及んでも、監督は姿を見せない。
誰かが言っていたが、スコセッシ監督は『地獄の黙示録』のカーツ大佐の如くほとんど姿を現さない。遠くの大きなテントの中で、モニターを見ながら指示を出すという。私は通訳の宮川さんを経由し、監督の神の声に耳を傾けるのみだ。
そして、ついに本番!
1シーンの中で、いくつかのカットを撮ったと思う。
火刑にされる俯瞰ショットでの出来事だった。
本番直前のリハーサルで、私は「みの虫状態」のまま、自分で用意してきた祈りの言葉を大声で唱えていた。
すると通訳の宮川さんが素早く私に駆け寄り聞いてきた「監督が彼女は何と言っているのかと尋ねています!」
私はすかさず「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ。意味は〝なんぞ、我を見棄てたもうや〟祈りの言葉です。ダメなら言いません!」と即答。
彼女は踵を返して監督の元へ。そしてまた再び私の元へ駆け寄ってこう言った。
「オッケーです!」
「本当に大丈夫ですか?」
「ええ、どんどん言ってください、と監督が!」
通訳を介してのやりとりだったが監督の返事が本当に嬉しかった。
ほんの短いカットだが、私が何かわめき立てている言葉は、それだ。
本番スタート。
キャメラが回り、「アクション!」の掛け声が響く。
蓑に包まれた私が身悶えしながら、大声で祈りの言葉を鉛色の空に向かって叫んでいると、その様子を眺めている〝もうひとりの私〟がそこに見えた。
「あっ!」となった瞬間、カットが掛かり、半ば気を失いかけていた。
とても不思議な体験だった。
本番が終わり、その後しばらく心ここにあらず。ぼんやりしながら、撮影が終わるまで私はしばらく現場を離れられずに浮遊していた。
どうやら私は魂を落としたかのようだった。
遠くで、私の娘役・石坂さんの撮影が始まった。
脚本では、十字架に磔にされて火あぶりになり、彼女の長い髪にあっという間に火が回り、それが火の王冠のように見えるという凄まじいト書きだった。
それこそ、もう目も当てられぬ無残な〝死に様〟。
磔にされ身動きのとれぬ彼女の撮影が無事に終わるまで、ずっと見守った。
磔の撮影、火だるまになったスタントの撮影も滞りなく終わった。
しかし空は相変わらずの鈍色。待合のテントで次の指令を待ちながら青鈍色の海を見つめていると、キリストのような面持ちの「キチジロー」がのしのし歩いてやってきた。
物凄いオーラを放つキチジロー・窪塚洋介君だった。
そういえば今回、「洞口は天草四郎の母親を演じるそうだ」と言うひとがいた。
窪塚君は、『魔界転生』(2003年)で天草四郎になりきっていたからだ。
それ以上に、今回の窪塚君はキチジロー以外の何者でもなかった。
どこからみても完全にキチジローだった。
遠藤周作の原作には、キチジローの丹念な描写がある。
「海を漂流していたところを助けてもらった狡い眼をした漁夫。
酒に酔っては、心の奥に住み着いた決定的な過去を拭い去るような弱さ。
襤褸(ぼろ)をまとい、犬のように憐れみを乞うている眼。
鼠のように小さな顔ですばしっこく逃げゆくような姿」・・・。
どの描写を読んでも、キチジローから窪塚洋介という俳優しかイメージが湧かない。
そして、キャメラが回り始めた。
火刑にされる家族。その地獄絵図から逃れようと、汚泥にまみれ野良犬のように這いずるキチジロー。
砂嵐の雨の中、巨大なテクノクレーンで撮影されるその様子を、わたしは固唾を飲んで見つめていた。
冷え切って感覚がなくなっていた足が、妙に熱かった。
そして本日最後のシーンの撮影。
キチジローが最初に踏み絵を踏む場面。家族が見守る中、ついに。
わたしはそのとき見た、窪塚・キチジローの足の爪が忘れられない。
長い時をかけて伸びきり曲がり尖った爪。
それはまるで何度も踏み絵に足をかけた、キチジローの足そのもの。
あの爪が本物かどうかは知らない。
それがどうあれ、わたしには、爪の先までキチジローが乗り移っているように見えた。
このシーンの撮影終了後、やっとスコセッシ監督が現れ、キャストひとりひとりに挨拶をしてくださった。
わたしにも「良い演技をありがとう」と語りかけてくださり、にこやかに握手を交わして別れた。
ロケ終了後、メイクトレーラーの鏡の前で窪塚君と相席。
彼は、踏み絵を踏むキチジローを見つめる私の目力が半端じゃなかったから、テンションがめちゃくちゃ上がったと、目をキラキラさせて語りかけてくれた。
踏み絵とキチジローを前に、無意識に演技以上のものが露わになった。真摯にそれを受け止める窪塚君の感性の鋭さ。
キチジローの母を演じたこと、それはとても貴重な体験だった。
準備も含め、長期におよんだ撮影のすべてが終わった。
言葉にならない感動を胸にわたしは、今一度海を見つめる。
空は太陽を隠し続け、小雨混じり。
季節外れの東北モンスーンが吹き荒れる海。
あの小説にあるがままの世界が視界の先に広がっていた。
「青鈍色の単調な波が浜を噛んでいた
雲は太陽を覆い隠し鉛色に低くたれこめていた」
遠藤周作著 小説『沈黙』より
~後日談~
長い編集作業を経て、映画はやっと完成した。
日本語字幕入り初試写を五反田のイマジカ試写室にて見る。
冒頭からエンドロールが終わるまで、ずっと目を皿のようにして見入った。
キチジローが家族を前に、初めて踏み絵に足をかける場面。
カメラがキチジローからパンすると、泣き崩れそうになる母(わたし)が映る。泣き叫ぶ声は一切消されている。そのたった一瞬に、強度の緊張感が漲る。
これは、後で知ったのだが、この消音は監督の指示だそうだ。
スコセッシ作品の編集を37年間手がけているセルマ・スクーンメイカーさんが、ニューヨーク公共ラジオ番組のポッドキャストで『沈黙』の編集裏話について語っていると、ファンの方から教えてもらった。
なんと『レイジング・ブル』からの手法であるそうだ。
素早いパンで観客の興味を集めて、あえてキチジローの母の声を消す。
セリフや音声を消して効果を上げる手法は、『レイジング・ブル』でのシュガー・レイ・ロビンソンにやられまくるシーンと並べて語っていた。音がロバート・デニーロの呼吸だけになって、血がブシャッ!と客席に飛び散る、あの名場面だ。こんな小さな場面にもこだわっているスコセッシ監督。
しかも、セルマさんの語りは、私の大好きなビーチボーイズのスタジオミュージシャン、女性ベーシストのキャロル・ケイの語りを彷彿とさせますね、とファンの声。
そして、あの映画に映るモキチとイチゾウ、村人たち、日本人キャストのすべての存在が、合成甘味料のような簡易的な甘えから出てくるものではない、信憑性あるものとして、風景や音と同一のフレームにおさまり、フィルムに焼き付いていた。
そして何よりも、私にとって、キチジローとロドリゴという二人が原作から飛び出てきたような存在を焼き付けていたことに驚かされた。
まるで『最後の誘惑』のウィレム・デフォーとハーヴェイ・カイテル、あのキリストとユダにも私には見えた。
こうして28年もの間スコセッシ監督の中で育った映画は無事生まれ、公開された。
生まれた子どもがおぎゃあと泣くように、沈黙を破り、映画は世界をめぐり、ひとびとの眼に焼き付く。
私の沈黙も終わった。
少しでも多くのひとびとの目に触れ、心に残ってほしいと思うばかりだ。
