私の「沈黙」=中編

当初『沈黙』はチーム間において『Lisbon』という名で呼ばれていた。
コードネームだろうか。
Lisbonという名で呼ばれるその映画に参加できることになった私。
早速、台湾入国の査証申請書とともに、出演承諾契約書が届く。
契約書には、同居している家族のサインも求められた。
映画出演に関する契約内容とともに、映画公開の情報解禁まで口外してはならない、というものだった。
私の〝沈黙〟はここから始まった。
映画は「戦場」の一言に尽きる。
これはゴダールの『気狂いピエロ』でアメリカの映画監督サミュエル・フラーの台詞の引用だが、まさにそれだ。
デビュー作以来、映画の現場へ呼ばれるたび、私はあちこちの戦場へ〝傭兵〟として赴く気分だった。
今回は初の外人部隊の〝傭兵〟としてのミッション。
しかも出演場面は2シーン。
いつも以上に用意周到、いつ戦場に呼ばれてもいい覚悟を決めていた。
1月。いよいよクランクインの報告を受ける。
スコセッシ監督はこの作品を製作するにあたり、何十年という歳月を捧げてきた。その映画がクラインクインすると聞いただけで緊張感とともに、撮影の無事を祈る日々がしばらく続く。
映画という戦場は、美しい感動の影で、数々の受難も待ち受けている。
フラーの台詞じゃないけれど、愛、憎しみ、行動、暴力、死。
それほどまでに命がけな現場であることは、『沈黙』の原作を読んである程度の覚悟は決めていた。
大袈裟に言えば、もう死んでもいい。
いや、まさか。
本当に大袈裟なのだが、私の身にこれに近い奇妙な出来事が起こるのは、まだ先の話。
さて、1月に無事クランクインした本隊チームだが、監督不在の中、かつら合わせと衣裳合わせが東京で行われた。
海外の(アメリカ、台湾など)チームによる時代劇は初めてだったので、
一体どんな衣裳やかつらが待っているのかと思いきや、不意打ちを食らう。
いわゆる日本の時代劇などでの衣装合わせやかつら合わせとはちょっと違う、リアリティーを追求しながらも物事をシンプルに捉える発想だった。
つまり本当にその時代の村人のように見えるにはどうするか?
たとえば、自分の体にあるものをくまなく利用することからの発想。
かつらのつけ心地はとても軽く、かつ、地毛も活かされるものだった。
リアリティーを追求する監督のこだわりだろうか。
だから、減量するひとは過剰なまでの減量を。
お侍役のちょんまげに至っては、〝月代(さかやき)〟と呼ばれるあの額から頭のてっぺんまでをカミソリで剃っていたと聞く。
台湾人のヘアメイクさんとあれこれ通訳を通じてやりとりする。
とりあえず髪の長さは撮影までできるかぎり伸ばし、毛髪の色もそのままで来るよう告げられ、台湾の現場入りしてから、再度合わせることになった。
2月、チーム本隊から突然、顔と全身の写真を求められる。
30度ずつほどずらして全体像を撮る360度写真。
火刑にされる役なので、私のダミーを作るにあたり必要なのか、それともまさか本当に燃えている場面をCGなどで作り込むためなのか。詳細はよくわからなかったが、たったあれだけの登場なのに、こうして求められることが多いと、俄然役者は燃えてくる。
3月に入った。
まだ現場への招集がかからない。
現地の状況も聞こえてこない。
一時は、もう延期か中止になるのではないかと、眉をひそめたりもしたが、とにかく無事を祈るばかりだった。
この年の3月で私は50歳を迎えた。
生前葬なるものを開くも、それは本当にそういう気持ちが含まれていたからだ。あの撮影でなら、何があっても悔いはないという本音。
そして、仲間のみんなに報告したい気持ちをじっと沈黙で貫いた。
いよいよ、4月。招集は突然やってきた。
雨紛々の清明の頃、私は単身台北に飛んだ。
台北桃園国際空港に到着すると、同じ便に乗っていたキチジローの妹役の石坂友里さんと一緒にホテルへ向かった。
何年ぶりの台北だろう。
熱帯特有の緑の原色多い景色を眺めながら、この地のどこかできょうも撮影に挑むチーム本隊のことを思った。
ホテルに到着するとすぐ、再びかつら合わせのため、その日の撮影現場の陽明山にいる本隊チームと合流する。
車窓から望むつつじ色に染まる景色。
台湾のお盆、清明節の連休中、陽明山までの道のりは大渋滞だった。
陽明山は観光名所だ。一体どこで撮影しているのだろう。
現場に到着すると、何台もの撮影関係車両が止まっていた。
ロケバス、トレーラーや機材車などなど。
はじめて出会う台湾人スタッフに「你好!」と声をかける。
皆これから一緒に戦う戦友たちだ。
すると、山の上から撮影を終えた本隊が降りてきた。
あ、監督だ!
視界に入った監督の姿はオーラに包まれていた。
ソフト帽子をかぶり、礼儀正しく清潔な服に身を包んだいでたち。
スコセッシ監督の第一印象は、大きな戦場で指揮をとる大佐さながら、予想以上の大きな存在感。
だが、その姿を目撃するのは一瞬だった。
なぜなら数名のセキュリティーらしき取り巻きに囲まれていたからだ。
一目で監督とわかる風格。さすがだった。
夕陽に照らされ逆光気味のシルエット、スコセッシ監督は監督専用車に乗り込んで颯爽と現場を後にした。
次いで、お侍の格好をした浅野忠信君がスタッフに囲まれて降りてきた。
彼とは以前NHK「トップランナー」出演の際お会いしていたので、気軽に声をかけてみると、彼は私をみてびっくりしていた。
「浅野君、お久しぶり! 現場は順調?」
「はい、おかげさまできょうは順調に終わりました。いやあ、この現場でまさか洞口さんと再会するなんて、本当に驚きですね!」
彼は突然現れた私に目をしばしばさせて驚いていた。
だが、彼の姿を目の当たりにして驚いたのは私の方だった。
それは彼の俳優としての風格にでもあったが、彼の丁髷姿だった。
頭の中央がつるんとしていて、まったく違和感がない。
あとで知ったのだが、なんと彼は額から頭髪てっぺん部分のみを見事に剃り落として丁髷姿に挑んでいたのであった。
早速、メイクのトレーラーに通されると、私が想像していたアメリカ映画の華やいだ製作現場の世界とは違っていた。
そこは職人たちがひたすら仕事をする空間だった。
それは日本も変わらない。
京都の撮影所の結髪部屋とさほど変わらないかもしれぬほど。
ただ、メイク専用の大きなトレーラーがあるという違いは大きいが。
もう一つ相違点といえば、誰がどの役を演じる役者なのか、主要キャストのプロフィール顔写真がずらり貼ってあること。
個性あふれる主要キャストの面々を眺めて深く頷き、私の心に赤々と燃える闘志の火がついた。このキャストとスコセッシ監督の映画に参加することは、何より誇らしかった。
あとは、現場で求められる以上に私のミッションを遂行するのみだ。
化粧鏡の前に座ると、すらりと、ロドリゴ役のアンドリュー・ガーフィールドがやってくるではないか!
鏡越しに目が合ったので「Hello!」とあいさつすると、彼はにこりと微笑みながら私の隣に座った。
一日の撮影を終え、だいぶお疲れの様子だったが、メイクさんたちと談笑しながらその華奢な体のメイク汚れを小慣れた手つきで拭き落とし、「See you!」と手を振りながら、ふわりと羽のようにフェードアウトしていった。
私の心の声は言うまでもない。(スパイダーマンだ!)
『スパイダーマン』『ソーシャル・ネットワーク』『私をはなさないで』などで、素晴らしい演技を見せてくれたアンドリュー。そんな彼が驕ることなく、私と同じ空間に存在していたというだけで、この戦場がいかに特別な戦場かということを再び思い知らされた初日であった。
メイクさんたちは疲れもあるはずなのに、なぜか陽気だ。
鼻歌まじりに手際よくかつらを合わせる。
そしてメイクさんとあれこれ1時間上かけてやっと「キチジロー母」のイメージが出来上がった。
台北初日を終えてホテルに帰ると、やっと本物の脚本をいただく。
日本人スタッフに、現場の様子を伺う。
「台詞がないのに、アドリブで台詞とか禁止ですかね?」
「いやあ、アイデアはどんどん受け入れてくれる監督ですよ」
役者に委ねる寛容さを持つ監督。
私の火はますます燃え上がった。
部屋にこもり、原作を読み漁り、台本と照らし合わせる。
悲惨な家族の結末を伝えるキチジローの言葉。
その行間、脚本のひと言ひと言を噛み砕き飲み込む。
その過程で、自分の感性がどんどん研ぎ澄まされてゆく。
とにかく、求められる以上のより多くの準備が必要なわけだが、今回はまったく勝手がわからない。初めて戦う異国の地でただひたすら自分を無にできるかだろう。
翌日からホテル待機。
渡された専用携帯電話が本隊と私をつなぐ唯一のホットライン。
いつ現場に呼ばれてもいい状態でいてください、ということだろう。
私はほとんどの時間を室内で待機し、体調管理のため、日本から持参したレトルト玄米などを湯沸かしポットで温めて食事を済ませた。
それにしても、どうも雲行きが怪しい。
台北初日は夏日のように暑く快晴だったのに、翌日からいきなり天候がよくない。天候に翻弄される撮影隊。
総合スケジュール表には本隊撮影終了日までのスケジュールがあったが、撮影が消化できていない日もすでにあった。しかし、どうにか撮らなければなるまい。
ここらでキチジローの回想シーンを撮らないと、また撮影のめどが立たなくなりそうだった。
夜遅く、撮影日決定の報告を受ける。
明朝小雨決行。
当初の予定より1日早い撮影になった。
つづく