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47リポーターズ

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瞳に漲る海 満島ひかりという女優

2016.6.10 11:25

 職業柄、言葉の響きには敏感な私。
 なぜか「婀娜(あだ)」(女性のなまめかしく色っぽい様子)という言葉の響きが好きだ。


 滅多に使わない言葉だが、数年前に一度だけ、大胆にも発したことがある。
 『夏の終わり』(2013年公開 熊切和男監督)という映画のヒロイン・知子を演じた満島ひかりを見た時だった。


 この映画は、瀬戸内寂聴さんが出家前の「瀬戸内晴美」時代、1962年に発表された小説が原作で、ご自身の体験(年上、年下の男性とご自身の三角関係)に基づいている。 


 最初は、満島ひかりという存在よりも、『鬼畜大宴会』(1998年)の熊切監督が手掛ける「恋愛映画」という興味の方が強かった。
 

 だが、映画の中で、圧倒的な魅力を放つ満島の演技にハッとなる。
 触れるだけで、血が滴るような刃を懐に隠し持っているにもかかわらず、それを一切使わずに戦う凄さ。しかもそんな凄みなど、知らぬ素振りを見せる彼女。


 ほんの1カットのある場面。
 私は一瞬の「婀娜っぽさ」に、打ちのめされた。


 年下の男の雑多な部屋で逢瀬を重ねる知子。
 雨の夜、不意に出て行ってしまった男。
 ひとり残された部屋に、朝がやってくる。


 開け放たれた窓の向こう。
 かすかにそよぐ風。
 窓へ向かい、やや距離を置き座っているひとりの女。


 しかし、女の表情から、心理描写的な何かを読み取ることは難しい。
 哀しさでもなく、憂いでもいない。
 どこに向けられているのかよくわからない、女の眼差しの先を追ううちに、
 映画の中でその表情は、決定的に「忘れられない顔」になる。


 演劇の演技のような大袈裟で解りやすい、もっともらしい心理に捉われた表情をしないことによって、見る者に不思議な感情を抱かせ、驚かされる。


 一瞬のあの表情は、映画における「忘れられない顔」として見事に成立されていた、と言っても過言ではないだろう。


 もちろん、それは監督の演出意図によるものかもしれない。
 でも、そこで〝なにもしないかのような〟満島ひかりという女優に驚かされたのだ。


 私は以前、その満島の表情の「婀娜っぽさ」を連載中の週刊文春シネマチャートで指摘した。
 それ以来、テレビや映画で見かけるたび〝なにもしないかのような〟彼女の演技を見る事が、私の秘かな愉しみになった。
 

 先日も、テレビで彼女を見かけた。
 NHKドラマ『トットてれび』の第4話。
 ラストの劇中オペレッタ場面で「ニューヨーク・ニューヨーク」を歌いながら踊っていた。


 楽しげに踊るような歌声。
 体が、歌詞の上をなぞるバウンシングボールの如くよく弾む。
 「歌う女優」が好きな私は、この場面にも釘付けになった。
 彼女は、歌って踊れる女優だったのだ。


 そして、『ミュージック・ポートレイト』(NHK Eテレ)の彼女に、さらなる衝撃を受ける。


 自分の人生で大切な音楽を10曲紹介する番組だが、彼女の選曲に興味を抱き、私は初めて彼女の生い立ちを知るのであった。
 

 父親が日本とアメリカのハーフであること。
 奄美生まれで、コザ(現沖縄市)という基地の街で育ったこと。
 篠山紀信さんの写真集『少女たちのオキナワ』撮影時、篠山さんから「君は笑わなくていい。カメラを睨め」と言われ、とても嬉しかった少女時代。
 そこに写っている彼女の眼差しは「ここじゃないどこか」をじっと見つめていた。


 そして「自分の自画像」という一曲に、『新日本風土記』のテーマ曲の朝崎郁恵さんによる、奄美の島唄「ええうみ」を選んだ。


 奄美ロケで2カ月ほど滞在していた彼女。
 「ものすごく血が騒いだ」という。
 奄美に母方のルーツを持つ彼女は、島滞在中に「やっぱり私はここの人間なんだ」と感じたそうだ。


 朝崎郁恵さんから、口伝えに島唄を教えてもらうと、歌いたくて、歌いたくてうずうずしたという。奄美の文化は虐げられた歴史で、母音の中にたくさん秘密が忍んでいる、とも。
 確かに奄美の言葉には、中舌母音という日本語にはない発音がある。沖縄とも本土とも違う言葉の音が、奄美には存在する。
 

 夢中になって、奄美の島唄の話をする彼女。 
 そのつぶらな瞳がみるみると漲ってくる。
 まるで潮が満ちる海の入り江みたいに。
 そこで、無数の生命をも育んでいるような。


 そして、彼女はちょっとだけ島唄を口ずさむ。
 母音の狭間にこぶしを効かせた、奄美の言語の独特な響き。
 それは、彼女のルーツが連綿と宿った、彼女独自の響きにも聞こえる。
 生まれながらに、彼女は言葉を大切にする人だったのだろう。


 先祖は奄美、そして父親が日本人とアメリカ人の血を引くルーツを持つ、そんなクレオールな彼女。(語学上としての意味ではなく、従来の民族や国家に捉われない、越境した独自の混合文化という意味で)


 「ここじゃないどこか」を見つめていた11歳の少女の眼差し。
 やがて大人になった彼女の瞳に、漲る海。
 

 西に東に、北へ南へと、何処へでも自在に「私」を移動させる。
 すべての関係を引き寄せ、育み、交差点にもなれる存在。


 女優としての満島ひかりは、そんな「クレオール主義」を独自に実践していくであろう、極めて稀有な存在なのかもしれない。


 そんな彼女の存在に、私はこれからも注目していきたいと思うのだ。

人間国宝による奄美の大島紬 既に女優の眼差しを放つ11歳の満島ひかり
人間国宝による奄美の大島紬 既に女優の眼差しを放つ11歳の満島ひかり